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コラム本編

    

2012年09月23日

シュリンプヘッズ

お待たせいたしました。久しぶりのコラムです。
例によってグダグダの文章ではありますが最後までおつきあいいただければ幸いです。

2004年の3月、四半世紀を過ごしました花の東京から松浦善博、一身上の都合にてふるさと神戸に帰郷いたしました。たいそうな書き方になっちゃいましたが、そろそろ神戸に帰らないと生粋の江戸っ子になっちまいますもんでそいつぁーちょっとばかし困っちゃうかなと。
標準語は25年も住んだのにまったく喋れませんでした。東京タワーは行ったことありますが、銀座の高級クラブにはデビューしませんでしたし、昔ながらの江戸情緒溢れる下町のこと等も殆んど知らずじまいでした。いやちょっと待てよ、そない言うと、神戸のポートタワーには行ったことあるけど憧れの北新地にも行ったことないぞ。

一時的に実家の近所に部屋を借りることにしました。場所はJR兵庫駅のちょっと山側で朝の9時40分を過ぎますとまったく陽が入らない部屋でした。そのあまりの寒さにガスストーブを長田のK’s電機に買いに走ったのが最初の外出でした。

神戸に引っ越すことは何人かの友人には伝えてありましたが、引っ越した次の夜にチキンジョージの正木さんから電話をもらいました。

「近いうちに会いましょう」ということでした。

僕は政治家ではないので、近いうちというのはせいぜい2~3日から1週間と考えていますので、早速次かその次の日に待ち合わせを決めました。こういうテンポで日本の政をやっていただけたらつくづくええのになあと考えますし、言いたいことは山ほどありますが今はやめときます。

まさやん「正木さん。エンジニア。以後は、まさやんと表記します」。は一人の女性アーティストを連れてきました。これが不思議な名前の人で、キナコと名乗りました。キナコというと誰しも想像するのがわらび餅にかかっている黄粉ですが、このキナコは人間でそれも若い女性シンガーソングライターでした。

まさやん「つきましてはキナコのアルバムを作りたいのでプロデュースを是非お願いしたのですがいかがでしょうか?」
松「依頼してくれて有難う。レコードをプロデュースするのは嬉しいけど神戸でやるの?それとも東京?東京やったら今はちょっとしんどいなあ。」
まさやん「ええスタジオが淡路島にあるんです。コブクロの時に一度きてくれたあのスタジオですわ。」

正式名はスタジオチキンジョージサザンアワジ。淡路島が誇る名旅館「うめ丸」の敷地内にあるという、それはそれは素晴らしい環境のスタジオなのであります。日本のコンパスポイントです!!!
コブクロのレコーディングに招かれて初めて訪れた時のスライドギターの録音はわずか1時間で終了してしまいました。

夕食までの時間を持て余した僕はスティームサウナ&大浴場を7回も繰り返しフラフラの状態で皆さんと乾杯したのが懐かしい思い出です。
その「うめ丸」でのレコーディングが関西での初仕事。神戸に引っ越して来たん大正解やと思いましたねえ。

デモテープをまだ聴いてもいないのに3人は盛り上がりレコーディングメンバーもその日のうちに決まりました。とは言ってもメンバー本人にその場から確認したわけではないので実際に決まったのは近いうちではなく次の日でした。まさやん、キナコちゃん、僕の決めた3人のアーティストは快くオーケーしてくれました。

ピアノ、オルガン、キーボードはツイストの時からの盟友 神本宗幸。
ドラムスはTHE SONSでいっしょにやっているロジャー高橋。
そしてベースはいつか一緒にやろーなとずっといっていたサヴォイトラッフルの小笠原義弘。

4人で出す音はすごく想像できていたので1曲ずつアレンジに取り掛かりました。ただ自宅の部屋が9時40分以降メチャ寒いので難儀しましたが、順調に編曲は進んでいきました。
今やから言えますが、曲の元ネタもろにあれやん的なものも少々ありましたが、そのうち暖かくなって来たので須磨海岸までサイクリングして頭の中に鳴ってくる音を小さなラジカセに吹き込んでそれを譜面にしていきました。

いやいや、全然違う。確かに五線紙は使いましたが99%音符は書いていません。まず曲のコードと進行を書いて、各メンバーにこないしてくださいというのを言葉で書くのを基本にしました。言わばお手紙ですね。

例えばロジャーへは、イントロ「タン、タタタン」 ブリッジでは「ウッタン、タカタン」とカタカナ表記で譜面上に書いていきました。ロジャーは「この譜面、今までで一番わかりやすいわ」と言ってくれました。嬉しかったですね。

神ちゃんにはプールの中でブクブクいう泡の音をシンセサイザーで出してとか、お月さんが見える感じのピアノ弾いて、とか。思いついたことをタラタラと書きました。
おがんちゃんには「ジャズベースを弾いて下さい」とだけ書きました。
あとは譜面の至るところに‘相談’の2文字。その場で皆さんで相談して決めましょうという、何とも曖昧な表現やけど笑える譜面が出来上がりました。
キナコちゃんのアルバムを聴いていただいたことのある方はなるほどなーと感じていただけることと思います。まだ聴いておられない方は是非聴いてください。ちなみにうめ丸の売店でも購入可能ですのでお泊りの際は是非お買い上げ下さい。

このレコーディングの自慢のひとつ、それはレコーディング時間の短さでした。
昼下がりの1時までに準備のある人はそれをこなし、2時前からボチボチ録音を始めていきましたが、皆さんの音楽性と集中力とアイデアのおかげを持ちましてレコーディングが夜の7時58分を越えたことは一度もありませんでした。もちろんまさやんが行うミキシングはまさやんの好きな時間にお任せしましたが、5人で演奏したり歌ったりはホンマに早く終わりました。
このやり方には僕のちょっとした憧れがありました。

ロスでツイストの再結成アルバムのミキシングをお願いしたジムスコットというそれこそレッチリなどで有名なエンジニアの方から聞いた話なのですが、トムぺティーとハートブレーカーズのレコーディングのやりかた、そしてその素晴らしさについて少々お話しさせて下さい。
彼らは一人も遅刻せず11時までにスタジオにやってきて、まずそれぞれの準備を始めます。スタジオアシスタントの方がメンバーのお昼ご飯の注文を聞きにまわります。大体の場合何がしかのサンドウィッチを皆さん頼まれるそうです。12時ころ「ランチブレーク」という声がかかりそれぞれ美味しそうに召し上がり雑談をしているかと思うと1時きっかりに演奏が始まるそうです。バンドやから口伝えでものごとは進行していき、午後4時ころに1曲の録音が完成すると「オーケー。イッツ タイム フォー ディナー」とそれぞれが帰宅の途に着くという夢のようなレコーディング。

朝方近くまでレコーディングをして、終わってから早朝焼肉を食べに行ってたあれは一体何だったんだ。人生の大きなミステイクのひとつには違いないですね。
ハートブレーカーズのように健康なバンドがあれば今からでも入れて欲しいものです!

この話を聞いてからいつかこんなスタイルでやってみたいなとずっと考えていました。
僕たちの録音はさすがに午後4時には終わりませんでしたがお楽しみの鯛のフルコースを堪能するのにちょうどええ時間までには必ず終了しました。
レコーディング終了後はそれぞれ。
大浴場で軽―く泳ぐロジャーとおがんちゃん。マッサージチェアーを堪能する神ちゃん。僕はちょこっとだけ明日の予習。キナコちゃんはマネージャーのカキちゃんとハーゲンダッツを買うか買わないかの話し合い。まさやんはミックスの準備。そしてこのレコーディングの仕掛け人、うめ丸社長の藤川さんは食事後のプライベートバーの設えやあれこれ。

そしていよいよ始まります。超豪華鳴門鯛を中心とした会席料理。何せうめ丸の目の前は鳴門海峡。そこで捕れた鯛は、それはそれは見事なもんでした。
その鯛フルコースの流れの中で大きな海老をメインとしたてんぷらがドーンと登場します。鯛と鯛の間の車えび。例えて言えば2ステージ構成のストーンズとストーズの間に突然登場してきたビートルズ。ちょっと例えは微妙ですが、そんな豪華2大魚介類のライブ饗宴とでも言いましょうか。「海老で鯛を釣る」という言葉がありますがこの場合「鯛で海老を釣る」というのもありではないかいと。話がちょっと支離滅裂になってきましたが、そのくらい美味しいということであります。

僕は海老は頭から尻尾まで全部食べる派なのでお皿は空っぽになるのですが、皆さんなぜか海老の頭を残すのです。僕がいくら進めても食べません。はっきり言って悲しき海老の頭達なのであります。

ある日10数人の大宴会が執り行われた時、僕はちょっと酔った勢いで皆さんの海老の頭を回収に周り自分のお皿に綺麗に盛り付けてみました。
「オー、何と美しい光景」こんなに立派な海老の頭の集合体をみたのは生まれて初めてでした。これにはみんな感動???していました。
誰かがとっさに叫びました。「シュリンプヘッズやっ!!!」
そして次の日から僕たちは誰からともなくこのバンドのことをシュリンプヘッズと呼ぶようになりました。
これがシュリンプヘッズの名前の由来であります。単純な名前ですがゴッツイ気にいっています。今年の6月には念願叶ってやっとライブをやりました。なかなか好評やったと聞いて喜んでおります。

レッドツェッぺリン
ストーンテンプルパイロッツ
パールジャム
グレイトフルデッド
世の中にはかっこええバンド名はいっぱいあります。
そやけどことバンド名に関したら負けない自信があります。
肝心の音楽はこれから頑張ります。
今はまだシュリンプヘッズという名前が浸透していませんから、便宜上松浦善博バンドにさせてもらっていますが、ええ機会にシュリンプヘッズにしたいなと考えています。

正式バンド名をシュリンプヘッズにするかどうかの協議は近いうち、いや12月にいたします。ということはライヴがある???

追伸
このコラムではあたかも毎晩鯛のフルコースを食べていたかのような表現が一部なされておりますが、実際には毎晩ではなかったということを明記しておきます。

うめ丸HPです↓

http://www.umemaru.co.jp/

2012年07月07日

ライブ御礼

松浦善博バンド2012 のライブにお越し下さった皆様本当に有り難うございました。

もう何年もライブをやっていませんでしたので、誰も来てくれないんじゃないかとゴッツイ心配したりしましたが、神ちゃん、ロジャー、おがんちゃん、スタッフの皆様のおかげで結果的には毎夜、たくさんの方にご来場頂き、ホンマに有難いことやなと感謝、感謝であります。

コラムを長い間書けなくなっていました。すみませんでした。
ただサボっていただけです。

今回のライブのタイトルはおがんちゃん「小笠原義弘」が考えました。
爆音スライダーとシュリンプヘッズとスカイドッグと。。。。。

この中のシュリンプヘッズという直訳すると「海老の頭達」がいったい
何を意味するのかを近々書きたいなと思います。

ではぼちぼちではありますが、活動を再開しますので今後ともよろしくお願いいたします。

松浦善博


2012年01月01日

SPRING HAS COME

SPRINGHASCOME.jpg

2011年01月11日

第49話 寒中見舞い

P6212981_500px.jpg2011年 明けましておめでとうございます。
本年もSLIDIN‘ & SLIPPIN’をよろしく御願い致します。

さて毎年恒例?となりました〔初夢をみた〕シリーズではありますが、1月7日現在例年のような大スペクタルな夢がいまだ上映されておりません。クリスマス頃から夢を見るのを楽しみに早めに寝たりしていたのですが、いかんせん相手はいつ見れるかもしれない謎の現象。今朝未明ちょこっとした悪夢は見ましたが、それは前の晩に見たテレビ番組「渡る世間は鬼ばかり」のワンシーンの変形バージョンであろうと思われる内容でした。そんなことで今のところ残念ながらコラムとしてお届けすることが出来ません。しかしひょっとして今晩あたり上映の可能性もゼロではありませんので、そのときは緊急投稿いたします。

昨年は4年ぶりにアルバムを発売いたしました。{詳細は第46話~48話を御覧下さい}
それも立て続けに2枚。発売記念ライヴこそしませんでしたが、僕にとっては実りある一年でありました。
今年は腰をすえてアルバムのプロモーション、そして出来ることならライヴも敢行したいなと考えております。果たして松浦善博特別公演?になるのか、はたまたMATT MACKEREL JAPAN TOURか!!!
いずれにしましても、みなさんに久しぶりにお会い出来る日を楽しみにしております。

KISS-FM KOBEの番組 KISS SLIDIN‘& RAMBLIN’は4年目を迎えようとしています。
これほど長く番組が続くとは夢にも思っていませんでしたが、ここまできましたら、超長寿番組にしたいなあと気持ちも新たにより良い番組にしていく所存でおります。

ゆっくりしたペースではありますが、ええ音楽をいつまでもやっていきたいと願っています。

本年も松浦善博、そしてMATT MACKERELをよろしくお願い致します。

2010年12月26日

無題

P4081638.jpgBest Wishes for a Prosperous New Year 2011


2010年10月17日

第48話 マット マカレル

9月19日北海道 倶知安町旭丘スキー場にて開催されました JUNK JUNK JUNK ∞2010 にご来場下さいました皆様、本当に有り難うございました。
スパークスゴーゴーの結成20周年を大勢のみなさんといっしょにお祝い出来たことを心から喜んでおります。

スパゴーはここまできたら、この先10年、いや20年、30年は続けてもらわなアカンなあ。そやけどやっぱり‘継続は力なり’やなあ、などと飛行機の中であれこれ考えながら一人おとなしく関西国際空港へ帰ってまいりました。そう言いますと、このところ飛行機恐怖症が見事になくなりまして、新幹線よりむしろ快適で早いなあと飛行機派に華麗に転身しようかなと思案中であります。
 
さて、マット マカレルです。
マットマカレルっていったい何なんや? 人の名前なのか、バンド名なのか、はたまた昨今流行りのコラボレーションなのか、さっぱり分からん方がほとんどやと思います。ただ有り難いことにJUNK×3でラッキーなデビューを飾らせてもらいましたのでライヴにいらした方はすでにご存知かとは思いますが、ここで改めてお話します。

8月4日に発売しました RAINBOW ROLL、そして RAMBLIN’ROLL は6曲入りのアルバムです。それぞれの収録曲は同じですが曲順が間逆なので聴こえかたがまるで違うという多分世界初の試みの話題作?であります。
そやけど当初の予定では10数曲入りの通常のアルバムを予定していたのでありました。それがなんでこないなことになったかと申しますと。

レコーディングも終盤にさしかかったある日、ニュートラックスの大瀧さんがヴォーカルの気になるところはないかをチェックのために6曲をCDRにして送ってきてくれました。

早速聴いてみますとこれがメッチャ聴き心地よかったんです。そして何度も繰り返して聴いているうちにだんだん「インストロメンタルのアルバムとヴォーカルアルバムを別々に出されへんかなあ?」と思えるようになってきました。

さっそく大瀧さんに相談しましたところ全く同じように感じていたとのことで、何度も話し合いを重ねインストロメンタルアルバムとヴォーカルアルバムを別々にリリースすることが決まりました。

結果、先に発表されたのがレインボー&ランブリンのアルバムです。

そして、残り物には福があると申しますが、僕にとって始めてのインストロメンタルのアルバムも続けてリリースされることになりました。

当初は当然、松浦善博名義でリリースする予定だったのですが、何か楽しいことをしたいなあと考えていました。

そんな時、昔自分でつけたペンネームを思い出しました。もちろん世には出ていない名前です。そのペンネームがマット マカレルだったんです。マットはネヴァダ州の高校に短期留学した時、クラスの担任の先生につけてもらった名前です。「マトゥーウーラやから今日からお前はマットや!!」

メチャ簡単な発想でつけられたそのニックネームが僕はゴッツイいやでした。
「僕は敷物とちゃうぞ」とずっと思っていました。そして、ハワイの高校に転入してからはSAKANAとよばれるようになりその理由も実家が魚屋だからというこれまた単純なもので後日YOSHI-SAN に改名され落ち着きはしましたが、アメリカにおけるニックネームのつけかたのシンプルさにはホンマ恐れ入りました。

「SAKANAかあ!そない言うと親父、八戸のサバを主力商品で扱ってたなあ。サバは英語でMACKEREL, うーん、MATT MACKERELかぁ,語呂ええなあ、外人みたいやなあ、よっしゃ、これでいこう」と10数年前に密かにつけたこの名前、いや、芸名でまさかアルバムを出すことになるなんて夢にも思っていませんでした。

大瀧さんにこのペンネームのことを話したら「ホントにあるようで語呂がすごくいいからいけるんではないかい」とのことでひょっとしたらひょっとするぞー、とは思っていました。
ちょうどそんな時、烏賊舌音響{ニュートラックスのスタジオ}でレコーディング中だったスパゴーの八熊慎一君に大瀧さんが何気なくマット マカレルのことを話したら、ことのほか気に入ってくれたらしくヤックは僕宛に短い手紙をくれました。

そこには「マット マカレル様 お元気ですか?」と書いてありました。
そして、同じくスパゴーの橘兄弟は倶知安で3人でライヴをやってみないかといううれしい話をくれました。

その辺りからマット マカレルという名前は元気に?歩き始め、気がついたら僕はマット マカレルになっていました{笑}
「よっしゃ、インストアルバム マット マカレル名義でいこう」と大瀧さんは決断しました。

SMAの細田さんからはJUNK×3に マット マカレルとして出演してくれないかという嬉しいオファーが来ました。
とんとん拍子でマット マカレルは幸運なデビューを飾ることになりました。

冗談のような話から事が発展しましてCDを出してしまう我がレーベル、ニュートラックスの夢のある決断にホンマ感謝しています。

アルバムタイトルは LIFE IN BLOOM とつけました。11月3日に発表いたします。
僕は本気でヒットしたいと願っています。幸い外人のような芸名なもので、そしてインストロメンタルなので世界共通です。これを武器に来年はいよいよライヴをやろうと考えています。再来年は世界ツアーになればもっとええなと思います。夢を追いかけられる環境にあることに感謝せなあきませんです。

もうひとつ報告があります。7月の中旬からハワイアンスティールギターの練習をはじめました。これがスライドギターとはまた違って、とても難しいのです。オマケに弦が8本もあってまだ何もわからない状態で毎日練習していますが、大胆にも倶知安で1曲演奏してしまいました。ハワイアンのプロの方からみたらへたくそやなあと思われるかも知れませんが当たって砕けろでやっています。実は LIFE IN BLOOMのアルバムのなかでも弾きました。オーケーの出ていたアコースティックギターを消してまでレコーディングの最終日に録音しなおしたんです。そのあたりも楽しんでいただけたら幸いです。

今年は僕にとって有意義な年でした。アルバムが出たこと。もう1枚出ること、写真を始めたと思ったらその写真がジャケットに使ってもらえたこと。スティールギターを始めたこと。芸名をつけた???こと等。

次回はLIFE IN BLOOM の曲のことやレコーディングのエピソードを書きますのでしばしお待ち下さい。
それでは皆様、マットマカレルを松浦善博、共々よろしくお願いいたします。


■MATT MACKEREL 「 LIFE IN BLOOM」
2010年11月3日(水)発売 YYCF-125 6曲入り ¥1,800(税込)

LIFE IN BLOOM
MATT MACKEREL

バウンディ
2010-11-03


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2010年06月13日

第46話 RAINBOW ROLL と RAMBLIN’ ROLL と ROLLIN’ ROLL

スパークスゴーゴーの橘あつや君から電話がかかってきた。
「河口湖の合宿にはグレコのSGしか持っていってないです。合宿中にやっぱりGIBSON
要るなあ。東京へ帰ったら探しにいこうということになったのです。それで手に入れたのがあの白いSGです」

兄ちゃん{あつや君のこと}僕のコラム見てくれてるねんなあ。そして電話。こういうのうれしいですね。バービーボーイズのいまみちともたか君は「パソコン以外は順調なこと、と信じます」というEメールを送ってくれました。ギタリストはみんな心がきれいなのでR。

そんな昨今とは何の関係もなく、またしてもコラムのアップに2ヶ月以上かかってしまいましたが、これには深い事情がありまして。

長らくお待たせいたしました。やっとアルバムの発売が決まりました。タイトルに書きましたとおり、レインボーロール、ランブリンロール そしてローリンロールという3枚のアルバムです。なにやら今大流行のロールケーキのようなタイトルでありますが、ケーキとはちゃいますよ!!!そやしなんで3枚なん???

まずはなんで長いことコラムを書けなかったのかをお話せねばなりませぬ。
それは我らがレーベル、ニュートラックス社長、大瀧さんの「善ちゃん、アルバムのジャケット写真撮ってみないか?」
この一言から始まりました。

何しろカメラといえば390円のインスタントカメラしか持っていませんでした。それも1年ほど前に2枚撮ったきりでほったらかし。正直に言いますと、写真には興味がなかったものですから最初はありえないことやと軽―い気持ちでいたのですが、ふと前作の淡路レコーディングの時、奥田民生君がジャケットの写真を撮ってくれたことを思い出しました。民生君は録音している時以外はずーとカメラを離さず、膨大な枚数の写真を撮ってくれました。おかげさまで素晴らしいジャケットが出来上がったことは、このコラムの愛読者?の皆様ならご存知のことと思います。

そこで考えてみました。僕にも出来るんちゃうやろか? ダメもとでやってみるか。しかーし、カメラのことなど何も知りません。どこのメーカーのどんなカメラを選ぶのか。僕はアナログ人間やからやっぱりフイルムカメラしかあかんのんやろなあ。そして一番の問題は何処で何を撮ればいいのかすらアイデアがなかったこと。問題山積です。

そんな時、大瀧さんが「今はいいカメラが出ていて簡単に撮れるし、そんなに値段も高くないよ。あっ、そうそう、3月の始めにオリンパスから小さなPENというマイクロ一眼カメラが出て、それなら善ちゃんにも使えるんじゃないかな」と教えてくれました。

僕はレンズが2本入ったolympus pen liteというカメラのお得なセットを購入しました。フイルムカメラかなあと考えていたのに見事にデジタルを買ったものですから、カメラの初期設定やら、記録メディア{当たり前かも知れませんがフイルムではなく切手くらいの小さなカード}がセットに付いてなかったので急いで買いに走る 等々 相当必死のパッチでありました。

オリンパスのカスタマーサポートセンターに何度電話をしたことか。それも初歩的な質問を繰り返す日々。いやはや申し訳ないなと思いつつも解らないことばかりで。でもオリンパスの方は親切丁寧に僕の問題を解決していって下さいました。そんなこんなを経て、何とか基本的なセッティングが出来あがり、近所での練習を始めました。
ギター始めて買ったけどチューニングってどないすんのん?弦はどうして張るの?コードって何や?何でもギターに例えてしまうのもおかしな話ですが、まさにこのレベルからのスタートでした。

写真はデジタルですから思いのほか簡単に撮れたのですが、笑ってしまうくらい下手くそでどうなることやら何度も挫折{たいそうやで}しそうになりました。そして時間のある限り写真を撮り続けること25日。何となくわかってきたような、そうでもないような微妙な状態でハワイ島へ撮影旅行を敢行しました。ナニ―ッ!!何と贅沢なヤツやねんとお思いでしょうがホンマのことを申しますと有り難いことにJALのマイレージがたまっていまして、そのおかげをもって無料航空券なるものをゲット出来たという次第で。そやからゴッツイ得をした気分で機上の人になれたというわけであります。


はじめて訪れるハワイ島、ヒロは緑の濃い、毎日よーく雨の降る町でした。
うむうむ、これだけ雨が降れば草木も思う存分育つやろなあと納得しながら、そして雨から逃げながら撮影を続けました。ホンマに雨はいきなりやって来ます。30秒で来ます。
3日目にはヒロにおける雨のメカニズムを解明?し、つかの間の晴れ間をねらって東奔西走。
結果、ヒロに行ってなかったら今回のジャケットは成立しなかったやろなと思えるほど、自分ではええ感じの写真が撮れたと思っています。
どんな具合かは楽しみにしていてください。

ヒロの次に島の反対側、カイルアコナの町に行き夕陽を撮影。そして懐かしのホノルルでさらにバンバン撮って人生初の撮影旅行は無事終了しました。

嬉しいことに大瀧さんは僕の写真に合格をくれて、何と、もりきこのジュニーさんがデザインをしてくれました。ジュニーさんは音楽だけやなくて、デザインもメチャ優秀なのであります。今は見本のCDが出来上がってくるのを、首を長くして待っている次第であります。

写真の話ばかりになってしまいましたが肝心の音楽の話に戻しましょう。
4年ぶりのアルバムということになりますが、今回はホンマにゆっくりレコーディングしました。そうや、曲を発表いたします。


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RAINBOW ROLL

1 あの丘をめざせ ~Сочи далеко

2 九番目の約束

3 新橋

4 春 夏 秋と冬

5 僕のこと 君のこと

6 人間110年

amazonで購入


以上6曲であります。
10数曲入りのアルバムではないので曲順を決めるのがホンマに難しかって、やっとのことでこの曲順に決まりました。
何日か経って大瀧さんから「6曲目の人間110年から間逆に聴いたらまた全然違うアルバムに聴こえるけど、どう思う?」という電話がありました。果たして、人間110年から聴いてみますと、これが全く違った印象のアルバムに聴こえてくるではありませんか。どうゆうこっちゃねんであります。

ドーンと王道ロックから始めるか明るくロックンロールからいくか、ここでかつてない迷いが生じてしまいました。

「よっしゃ!!それなら配信用を含めて3枚出そう」と言われた時にはひっくり返りそうになりましたが、こんな企画はそうそう実現できることではないし、ひょっとしてギネスか?的楽しさもあり、今はとても満足していますし、大瀧さんに感謝しています。
そんな夢のアルバムがランブリン ロールです。


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RAMBLIN’ ROLL

1 人間110年

2 僕のこと 君のこと

3 春 夏 秋と冬

4 新橋

5 九番目の約束

6 あの丘をめざせ ~Сочи далеко


amazonで購入



そして配信専用のアルバムタイトルはROLLIN’ ROLLに決定。
ROLLIN’ ROLLは「フィルモア最初の日」のリミックスバージョンを加えた7曲入りのアルバムになります。このフィルモアが前作のミックスとはまた違いそこいらあたりも楽しんでいただけたら幸いです。


itune_matsuura.jpg
ROLLIN’ ROLL
1 あの丘をめざせ ~Сочи далеко
2 九番目の約束
3 新橋
4 春 夏 秋と冬
5 僕のこと 君のこと
6 人間110年
7 フィルモア最初の日
http://itunes.apple.com/jp/album/rollin-roll/id379201749

4年かけてこれだけかいな?と皆さん感じておられると思いますが、松浦善博 これでは終わりません。更なるレコーディングも現在進行中であります。
そやけどしばしの間はロール3部作をお楽しみ下さい。

配信は7月7日からです。I TUNEをはじめ最寄りの配信処からダウンロードお願いいたします。
アルバム発売は8月4日です。
こちらは手前味噌ではありますが写真も大きな魅力のひとつになっております。
もちろん歌詞カードの中の写真はそれぞれのアルバムで違いますのでそのあたりも含めて楽しんでいただけたらゴッツイうれしいです。

ではまた報告しますのでしばしお待ち下さい。
さあ、写真撮りに行こう!!!

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2010年04月02日

第44話 パソコンが壊れました

第44話は、10日ほど前に書き終えていました。ところがパソコンが何の前触れもなくいきなり壊れてしまうという大事件発生。そんなことで、書き直しとなっているのでありますが、一度書き終えた文章を思い出しながら書き直すのがこれほど難しいとは思いませんでした。オマケにI podのデータというか、何千もの名曲が一瞬にしてどこかへ消え去って行きましたし、メールアドレスも全て失ってしまいました。そやけど、56歳の誕生日の今日、一からの出直しというのも悪くはないかも知れません。

それでははじまり、はじまり。

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2010年03月10日

第43話 “1年くらい遊んでてよ”、のはずが

午前中は会社に来なくてもよいとは言われたものの、新入社員としてはそれではアカンやろと思い、始業時間に出社する日々がしばらく続きました。そやけどやっぱり何もすることがない。

‘聴き振り’にも限界がありましたし、かといって電話に出たら出たで失敗もしました。
毎日のように通った渋谷のタワーレコード、六本木のWAVE 、銀座の山野楽器、山野楽器には当然楽器フロアーがあり、買いもしないのにあれこれギターを試奏させてもらったりしました。あまりにも頻繁に顔をだしすぎたのかある日「ツイストの松浦さんですよね?」と聞かれてしまいました。うそをついても何なので「今はディレクターをしているのです」とか言って名刺を出しちゃったりなんかして。この日をさかいに楽器売り場には行き辛くなってしまいました。

仕方がないのでちょっと足を延ばして御茶ノ水や神田、新宿界隈にも出没するようになり都内の大型レコード店、楽器店はほぼ制覇した形となりました。とは言いつつも店員さんと話すわけではなく、もっぱらウインドウショッピングをしていたという地味な毎日でした。

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2010年02月08日

第42話 1年くらい遊んでてよ

エピックソニーに入社した日のことを書こうと決めてから早や1ヶ月。書けなかったというか、パソコンのキーボードに触れることもなく1月は通り過ぎていきました。正に「Life in The Fast Lane」であります。2月は28日しかないので、3月がすぐにやってくるのは最早明白で、そうこうしていたら大嫌いな梅雨がやって来て、瞬く間にクマゼミが大合唱を始め、鳴きやんだと思ったら木枯らしが吹いてうめ丸の温泉と鯛が恋しくなる。「ワーッこんなことしてたらイッチョウ上がりになってしまうぞ」ということに気づき、やっと机の前に座った次第であります。

ウーンしかし何を書いて良いのやら。今までとは違ってなんせ責任ある社会人時代の話であるからしてエエかげんなことは書けない。数ある逸話も今となっては時効やから思いつくままに書き進めればよいとも思うのですが、どうも気が乗らないので路線を変えようかなと思案中。ということで小休止。


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2010年01月05日

第41話 謹賀新年

明けましておめでとうございます。本年はいよいよ新しいアルバムがでます。6月頃を予定しておりますが、詳細が決まり次第お知らせいたしますのでよろしくお願いいたします。

コラムは順調とは決して言えないほど書けておりません。周りの友達にも「ナンボ何でも遅すぎる」とおこられています。ホンマにゆっくりではありますが書く意欲はありますので気長にお待ち下さい。次はエピックソニーに入社した日のことを書く予定であります。
そこで新春恒例?となりました「初夢を見た」で今日はご勘弁の程を。
     
「初夢をみた 2010」 

僕が宝塚歌劇団のトップスターMさんとエレベーターに乗っている所から夢は上映されました。

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2009年10月26日

第40話 イッツアソニー

本格的にソロ活動を再スタートしようと久しぶりにリハーサルが始まりました。

バンドメンバーはツアーごとに変わりましたが、気の合う友達が手弁当で参加してくれていました。メンバー遍歴を紐解いてみますと、ギターが依田“デカパン”稔、小林圭三、新井清貴、佐藤英二、一時期準レギュラー的ゲストで田中一郎、ベースが新井武士、鮫島秀樹、キーボードは神本宗幸、蓑輪単志、ラッキー川崎、難波正司(敬称略)佐藤君、蓑輪君、ラッキーさんはワンツアーだけの参加でしたが、ホンマにええメンバーが集まってくれたものです。

観にきてくださるファンの方たちは毎回のメンバー、ゲストがゴッツイ楽しみやったそうです。楽しいライヴを続けられたのは、ミュージシャンの皆さんのお蔭やなあとつくづく思います。

そやけどホンマのことを言いますと、

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2009年08月15日

第39話 タキシードを誂えに行く

当時の徳島ラーメンは今流行りのそれとは違いごく普通の、しかし劇的にうまいラーメンでした。もちろん市内の有名店に行ったわけではなく楽屋に出前してもらったひょっとしたら近所の食堂のラーメンだった可能性もなきにしもあらず。にもかかわらずメチャクチャうまかった。

具もいたってシンプル。チャーシューにモヤシ、それに青ねぎが少々。シナチクとナルトに関しては忘れました。メンバーみんなで畳の楽屋でメチャ盛り上がって食べました。地方に行くとその土地、土地でおいしいものがいただける。贅のかぎりをつくしたものから素朴な名産品まで。

ずいぶん前のコラムで食べ物ベスト3の発表をしましたが、この徳島ラーメンを忘れておりました。コンサートの後の恒例の打上げの後、有志を募ってもう一杯徳島の思い出にと街場のラーメン店を探してお腹がはち切れそうになったのも懐かしい思い出です。

もう一軒だけ飲みに行こうという誘いを辞退してホテルに帰りシャワーをしようと風呂場の鏡に写った顔を見ますと何か変なブツブツがあるのに気づきました。そしてアレヨアレヨといううちにブツブツは全身に広がって行き痒いわ、腫れてくるわで、どないもならん状態に一瞬のうちに陥ってしまいました。

これはえらいこっちゃとマネージャーのM氏に電話して状況を伝えますとすぐに部屋に跳んできてくれました。「松ちゃん、これはマズイわ。蕁麻疹や。すぐに病院へ行こう」と夜間外来で観てもらいましたところ、どうも普通の蕁麻疹ではないのではないかということになり、ひとまずは注射をして症状は軽くなったものの可能性として腸チフスの疑いも視野に入れといたほうがよいということで、次の朝改めて診察してもらうことになりひとまずホテルへ。

しかし痒いの何ので、結局は一睡も出来ず、朝一番に病院へリターン。検査結果は1週間くらいかかるということで症状を抑える注射と大量の飲み薬をもらい次の会場へ移動しました。ところが移動中のバスの中で痒さは頂点を極め、件のブツブツの形体が変わってきたときはそのおぞましさに失神しそうになりました。

形状を説明します。直径1センチ弱位の赤い丸を細めのマジックインキで書いて下さい。その中心に赤い小さな点をひとつちょんと書くと出来上がり。これが体中に無数に出来ているのです。気持ち悪い話をしてすみません。しかしこれは事実です。結局バスは会場に向かわず高松市の大きな病院の前に横付けされこの世のものとは思えない顔の僕は緊急外来で処置を受けました。注射をしますと不思議におぞましいブツブツは消え去りホッと一息。

何もなかったようにコンサートは始まりましたが後半でまたしても敵は容赦なく襲い掛かってきましてさすがに痒いとも言えないのでアンコールまで頑張りましたが、またもや病院へ直行。まだ腸チフスの疑いは消えてはいませんでしたがどうやら強烈な食あたりのアレルギー反応がでてるのであろうということがわかってきました。

思い当たる節は2つ。例のバンコックの中華、またはホテルの部屋の無料のミネラルウォーター。これしか考えられません。僕は水分をたくさん摂るほうなのでこの無料の水を大量に飲んだのですが、よーく考えるとノーラベルだったし他のメンバーはエヴィアンなどを買って飲んでいたし発症したのは僕1人だったのでこの無料水が原因であろうと思います。もし中華なら松藤君もなったかもしれないし。

四国中の病院にツアーバスは横付けされました。毎日注射しても症状は緩和されず注射が切れたらまた浮かび上がってくる。この繰り返しでした。冷たいシャワーを浴びたら少しは楽になりましたがこんな経験後にも先にもこの時だけです。よく水が合わないとか水にあたるとかききますがこれほどまでとは思いませんでした。メンバー、スタッフの皆さんに迷惑かけっぱなしの四国ツアーでした。

そのあと少し休みがあったので神戸の実家に帰りましたがまだ注射三昧の日々で久々の神戸やのに何もせずに次のツアー先に向かいました。ただ嬉しかったのは腸チフスではなかったこと。だんだんブツブツも地味になってきまして完治したのは2週間ほど後のことでした。

さて次のツアー先がどの方面だったかは今となっては思い出せないのでGoogle で検索したり八方手をつくしてみたのですが九州ツアーやったような気がしてきましたのでその気分で書き進めることにしましょう。


桜島が目の前に見える豪華なオーシャンビューの部屋にチェックインした時の出来事です。さっそくヴェランダで白いチェアーに座りリゾート気分を満喫していますといきなり地響きがしてホテルが揺れだした。とっさに地震やと思い部屋に避難(大袈裟やなあ)したんですが、外を見ますと何と桜島が噴火しているではありませんか。

これはえらいこっちゃとすぐにフロントに電話したら笑われてしまいました。「今日のは少し大きかったですが大丈夫ですよ」とのことでひと安心でしたがいきなりの噴火、それも目のまん前ですからビビリますわなあ。この日の楽屋での話題はもちろん桜島大噴火の傾向と対策についてでした。コンサートのMCでも谷村さんはこのことについて話されてたと思います。

九州もほぼ全域ツアーしまして最終日は長崎でした。長崎といえば日本3大中華街のひとつがある街。ドラムの松藤君は僕を誘わず出掛けたそうです。皿うどんを目指して!しかし初めての中華街でどのお店の皿うどんが美味しいかはわからない。

そこで彼は街をたまたま歩いていた中華料理店のコックさんとおぼしき人物にどこの店がいちばんおいしいですかと尋ねたそうです。その方は日本語があまり上手ではなかったそうですが親切にもお店の前まで連れて行ってくれ「ここ一番美味しい」と指をさしたその店とは「リンガーハット」

これはホンマの話です。日本全国どこでも食べられるチェーン店ではありますが、長崎の中華街をしてナンバーワンとはウソのようなホントの話でありました。


その夜はベースの小林大介君、難波君、田代君と飲みに行きまして、僕は九州最終日ということとブツブツからの解放という二重の喜びからか少々飲みすぎまして見事二日酔いになってしまいました。次の日は神戸のラジオ関西でソロアルバムのプロモーションで生番組のゲスト出演が決まっているというのに。

長崎から在来線、新幹線を乗り継いで西明石までほとんどの時間をデッキとトイレの往復に終始しやっとの思いで須磨の駅に辿り着きました。そんなことですから呼んでいただいた番組名も何を話したかも全く記憶にないのであります。そのあと東京へ帰ったのか実家へ寄ったのかも忘れました。いやあ、お酒はほどほどにせんとあきませんね。

そんなツアーも終盤にさしかかったころマネージャーのM氏から「松ちゃん、今度のオフの日、渋谷の西武百貨店にタキシード誂えに行こう」と言われました。話をよく聞くとツアーが終わったらディナーショウで全国を廻るのでタキシードが必要で僕だけ持っていなっかったので衣装として購入してくれるという有り難いお話で。

紳士服売り場には普段縁がないものでM氏にお任せしてえらい上等なタキシードを別注することになり「こんな高いのええんですか?」と思わず言ってしまったくらい僕にとっては高価な買い物になりました。

そのタキシードは今でも家の押入れに大事に保管されています。ただ着る機会がないものでひょっとしたらメタボまわりはきびしい状態になっているやも知れません。そのピカピカのタキシードを着てのディナーショウツアーも無事終わり1年数ヶ月に及んだ谷村新司さんのツアーが終了しました。

決して一流ではないアコースティックギターのバッキングに谷村さんは歌いずらいなあと思われた時も多々あったとは思いますが温かく接して貰えて僕にとっては実りのある1年と数ヶ月でした。

そう言いますとアリスが久しぶりにツアーを再開するそうです。やっぱりバンドはええですね。素晴らしいツアーになることを祈っております!!
さて本腰を入れて自分のソロ活動を再開する時がやってきました?


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2009年05月21日

第38話 すばる

アイドルワイルドサウスの難波正司君から電話がかかってきた。1983年のお話です。

ああでもない、こうでもない、といつものように四方山話をしていますと急に難波君は真面目な口調でこう切り出した。「松浦、谷村新司さんの音楽どない思う?オレはアリス時代からバックバンドやってるねんけどライヴなかなかええよ。それでな、今度のツアーでハードなロックをコンサートの前半でやるんやけど参加してくれへんか?」

僕は一度難波君といっしょに谷村さんの家にお邪魔したことがありゴッツイ楽しいお話をいっぱい聞かせてもらった上、上等なすき焼きまでご馳走になったので二つ返事でオーケーしました。しかし不安が全くないわけではなかった。今までロック一本でやってきたのでまるで譜面は読めないし、アコースティックギターも上手くないのでその辺りを難波君に率直に話しましたところバンドにはアコースティックギターの名手 田代耕一郎君がいるからエレキだけガーンと弾いてくれたらええねんということでまるで問題はないことがわかり一安心。

ツアーで演る曲の音源と音符がギッシリ書き込まれた譜面を受け取りリハーサルに備えました。家で1人で練習をはじめますと、思っていたよりハードなロックやったのでビックリやら嬉しいやらで順調に曲を憶えていきました。もちろん譜面は一切読み?ませんでした。エレキだけをやればええと思っていたのでエレキギターパートだけをコピーして1人練習は終了しリハーサル初日がやってきました。さすがに初対面のメンバー、スタッフの方が多かったので最初は緊張しましたが、難波君はいるし谷村さんがうまいことリラックスさせてくれたおかげで順調にリハーサルは進み、前半のハードロックな部分は1週間もかからずに出来上がりホッと一息。

しかし、ここでいきなり谷村さんのドッキリ発言「後半は松浦もアコギやってよ」内心アレレレレーッとは思ったけれどハイと言うしかしゃあないわな。後半の曲は演奏せんでええと勘違いしていた僕がアホやったんです。でもよーく考えてみたら西岡たかしさんのバックをやったときもアコースティックギターはやってたし、リズムギターを弾くぶんには問題はないなと引き受けたのですがリハーサルが進むにつれ事情が変わってきました。

「秋止符」という曲で僕のギター一本で谷村さんが歌うことが急遽決まった。基本的には簡単なアルペジオの伴奏やったのですがリハのときでも毎回緊張しました。それもハンパな緊張と違うかったなあ。70回も80回もコンサートツアーで演奏しましたが毎回緊張してました。というのもこの曲は谷村さんが客席に下りていってファンの方たちとコミュニケーションをとりながら歌うという場面だったので、隣同士で演奏するのとは違い谷村さんの動きを視野に入れながら演奏しないとどうしてもちょっとしたタイムラグがでるんやないかという心配があったりで毎回が真剣勝負でした。そういうわけでこの曲は今でも目を閉じて何も見えずでも演奏できます。違うかあ!!!

ツアーはこんな具合で緊張する場面があったり、谷村さんのMCがあまりにおもしろいので、マジで笑い転げてしまって前の方のお客さまに迷惑かけたりで。でも有名なヒット曲が盛りだくさんの素晴らしいコンサートでした。ツアーにエンジンがかかってきたころ、僕にとって初めての海外コンサートツアーが敢行されました。香港、シンガポール。タイのバンコック、どの国も刺激的でした。

香港は当たり前やけど異国情緒たっぷりの大都会で2DAYS公演。日本の電圧は100ボルトですが、香港は220ボルト。その関係でアンプから出てくるギターの音が全然違うのです。まるで外タレのようなすごい音がして一夜にしてギターが上手くなったのかと勘違いするようなそれは素晴らしいサウンドでした。ステージと客席の一体化したムードが言葉の壁があるはずなのに、その壁がかえっていい効果になってるのかなと思えるくらい良くてとにかく香港バンザイでした。

いまでは大好物の香菜(パクチー)の洗礼を受け初めて飲む紹興酒にも戸惑いはしましたが街場の屋台の中華の旨かったことといったら。ハワイのカニ以上に感動の後シンガポールへ移動。シンガポールといえば、アジアツアーに出発する数日前に谷村さんに話があるから楽屋にちょっと来てと言われ、何の話かなあと色々考えを巡らせていましたところ「松浦 髪ちょっと短くしてくれへんか?今の長さやと松浦だけシンガポールに入国出来ないらしいねん。申し訳ないけど頼む」と言われ変な国やなあとは思いましたが谷村さんに直々御願いされたらしゃあない。というかツアーに行けないのはゴッツイ困るので、バッサリでもないですが無難な程度に短くカットしました。

お蔭様をもちまして、シンガポール無事入国。むせかえるくらいの暑さと南国特有の甘―い匂いがして緑がすごく濃い美しい国でした。掃除がこれまた行き届いており、街にゴミがひとつも落ちていない。香港とはうって変わってざわざわしていない所が気にはなりましたが、,豪華なホテルに泊まれたしええコンサートが出来たので短髪のことはもう忘れていました。しかしチュウインガムも禁止やし、ましてや量にもよるらしいですが大麻や麻薬などを所持していたら死刑やとはお見事な国には違いありません。それでも屋台へドラムの松藤君と繰り出して1メートル近くはありそうな巨大イセエビに舌鼓状態でありました。

さて最後の訪問国タイのバンコック。ツアーといえども仕事ですからなるべくホテルの中で食事をするようにという御触れがあり、楽しみにしていたタイ王宮料理と舞踊の夕べもスキヤキディナーに変更ということで何か微妙な空気を薄々は感じていたのですが、次の日の昼にまた松藤君とホテルを抜け出し中華を食べに街に出掛けたのが運のつき。キレイなレストランだったし料理もおいしかったのですが、お勘定のとき席を立とうとしたところ松藤君のショルダーバッグが影も形もなくなっていました。

お店の人総動員で探し回りましたが結局は出てこずじまい。大切なカメラと自慢のハンティングワールドのショルダーを失ってしまいました。だから言わんこっちゃないとみんなに叱られました。聞くところによるとこんなのは日常茶飯事やそうです。まあ自己責任ということでいざコンサート会場へ。砂埃が舞う道を30分ほど行った所の体育館がその日の会場でした。ここでも熱烈歓迎。「昴」が始まるころにはお客様がみんな涙を流している。遠い日本を思い出しておられる方はもちろんのこと、地元の人も感動してくれている。この光景は忘れられません。ホンマに心から音楽を聴いてもらえてるのを目前にさすがに僕もグッときました。

そしてコンサートは無事終了。この夜の打上げもなぜかまたスキヤキディナーでした。ウーンなんでやろかなあと疑問を残しつつ帰国の途へ。バンコックー成田間はJALのDC―10という飛行機でした。離陸して食事が終わったころに乗務員の方が「いやあ、今日は機体が重くて滑走路ギリギリでやっと飛んだんですよ」とホンマとも冗談ともとれる微妙な話をしてきたのには思わずゾッとしました。バンドの機材が半端やないくらいの量でしたから。

そうこうしていますと今度はエアーポケット。ゴッツイ急降下したはずです。一瞬の出来事でしたが、僕は死ぬんちゃうかと本気でビビリました。しかし無事ランディング。さあ成田に着いたら次の日は徳島公演。休む暇なしの谷村新司ツアーです。ところがその徳島で僕の体調がどえらいことに。それは次回のお話ということで。

2009年03月03日

第37話 築地デビュー

宇崎竜童さんのバンドの活動の合間をぬってはじめてのソロアルバム制作が始まりました。

あの内定取り消しから1年以上が経過していましたが、所属事務所もバースデーソング(元レイジーの影山ヒロノブ君と同じ事務所)に決まり社長の山岸さんには同じ関西人ということもあり公私ともによくしてもらいました。ここに至るまでの1年数ヶ月は紆余曲折の日々で何度も挫折しそうになりましたが渋谷のエッグマンに出演したことをきっかけに山岸さんにお世話になることが決まり、ホンマにあっという間に決まったので物事が動く時、決まる時は一発やねんなあということをこのときはじめて思い知りました。

ああでもない、こうでもない、と言うててこれまでで上手いこといった事などただの一度もなかったなあと今改めて思い返しています。SLIDIN‘&SLIPPIN’をレコーディングするときも現レーベルの大瀧さんに電話して3分後には決まったくらいですから。
いつまでも感謝の旅なのであります!!!

レコーディングは温かい季節に始まりました。築地に程近いオンキョウハウスは当時はええリズムトラックが録れることで有名なスタジオでした。そんな恵まれた環境でのツキジデビュー、いやソロデビュー。レーベルは佐川急便が立ち上げたリバースターレコードで橋幸夫さんと同じ会社でした。アルバム発売告知のチラシ、今でいうところのフライヤーも橋さんと僕が紙面の半分づつを飾るという、光栄ではあるのですがちょっと微妙なムードのデザインにスタッフ全員が思わずびっくりしたりもしましたが、それもレコード会社の配慮。2枚看板でっせーという意気込みを感じましたし、今にして思えば記念に1枚おいておけばよかったと後悔しております。

レコーディングは難波正司君が全曲のアレンジとキーボード、新井武士さんがベース、吉岡貴志君がドラム、このメンバーで殆んどの曲を録りましたが、ゲストで元ツイストの世良公則君、鮫島秀樹君、神本宗幸君、元サザンオールスターズの大森隆志君、アコースティックギターには田代耕一郎君、難しいギターソロには初対面でしたが難波君の紹介で今剛さんも参加してくれました。

メンバーのクレジットが正しいかちょっと気になったので箪笥の中から古いオリジナル盤をひっぱり出してきて確認しましたところ、なんと鮫ちゃんがベースの他に以外な事をやっているのを発見しました。鮫ちゃんがやってくれたのはローランド808という当時はやりのリズムボックスのプログラミングで、僕がホール&オーツみたいなリズムにしたいと言ったら「おお、そんなん簡単やで、オレがやったるわ」と次の日「ほんならやろか、草津&大津」とギャグを飛ばしながら機械ごと持ってきてくれたのでありました。それにしてもいつも絶妙のタイミングやなあ。

皆さんの協力のおかげでレコーディングは順調で13日間で終了しましたが朝まで掛かった日も何日かはありました。そやけど朝までやると築地で寿司というオマケがついてくるので、ひょっとしたら無理やり朝までやった日があったやもしれません。寿司にはまった僕と吉岡君は朝まで待って個人的に行ったりもしました。そんな思い出の築地ですから今回の移転問題は少々気になるところではあります。

そうや、こんなこともありました。レコーディングの途中で宇崎さんの沖縄でのコンサートがありスタジオを中断して1泊2日の沖縄ツアーというのを体験しました。ライヴのあとの打上げで憧れのヒバチステーキを食べながら宇崎さんと長い時間話をしました。宇崎さんの苦労話など勉強になることをいっぱい教えてもらいました。他のメンバーはもう一泊くらい沖縄に滞在したと記憶しますが僕はトンボガエリでした。ただツイストの時に憶えたテクニックで空港でのチェックインの時に一言アッパーデッキで御願いしますというと2階のファーストクラスの席に追加料金なしで座れたので、この時も1人悠々と大きなシートで帰って来れたのでありました。古き良き時代のお話です。

さて築地へ戻りレコーディングは無事終了しミックスもマスタリングも済んで一段落して家で出来あがったばかりの「THIS TIME FOR YOU」と題されたアルバムをドキドキしながら聴きました。ところが何度聴いても変な箇所があるんです。ブラッドショットの小林和之君作でシングルにもなる予定の[もしもし]という曲のもしもしがどう聴いても「もしも」にしか聴こえない。それも全箇所がそう聴こえます。

えらいこっちゃということですぐ山岸さんに電話して歌いなおしを御願いしました。山岸さんは快く引き受けてくれたのですがアルバムのサンプル盤だけはどうしようもないということが後日わかり、アルバムは2種類のバージョンが実は存在しています。そやけど発売された方はしっかり歌いなおしているバージョンなので[もしも]を聴いた人はごく少数の関係者だけやと思います。

アルバム発売記念のライブは渋谷エッグマンと大阪のキャンディーホールで行いました。この時のバンドは吉岡君、神ちゃん、鮫ちゃん、新井君、僕の5人に加えキーボードを宇崎さんのバンドでいっしょのラッキー川崎さんが手伝ってくれました。ツインギター、ツインキーボードのなんとも贅沢なバンドサウンドでした。

さてレコードのプロモーションが始まりました。当時は有線放送にご挨拶にいくのが主流?だったのか、東京中の有線回りをしました。忘れられないのはレコード店へのご挨拶回りで(だんだん演歌の匂いしてきましたでしょうか?)ある都市の大きなレコード店に伺ったときのこと。お店の前には僕のポスターが何枚か貼られてあり、その前にはビール瓶のケースが2つ並んで置いてあり、マイクスタンドと簡単なカラオケセットも設えられてあるではありませんか。

僕は事情をすぐに察知したのですが、まさかこちらからは何も言えない立場なので黙っていました。このときは山岸社長も同行していなかったので、さてどうしたものかとまずはお話を聞こうとおとなしくお店の方と談笑などしつつ、今から何が執り行われようとしているのか静かにみておりました。もうお解かりやと思いますが、ビール瓶の箱の上で「もしもし」をハンドマイクで歌うことがその日のメーンエヴェントでありまして、準備が出来たらお店の方が通行しているお客さんを呼び込みますとの説明があり、これはイッパツ歌うしかないかと一瞬腹をくくったのですが、これをやったら自分はきっと終わるやろなと思い勇気を振り絞ってレコード会社の担当の方とお店の方にごめんなさいをして挨拶だけにしてもらいました。

どんな言い訳をしたかは今となっては忘れてしまいましたが、お店の女性の方が「この曲、ジョー ウオルッシュみたいなロックですからカラオケはちょっとねえ」と発言してくれました。この一言がきっかけで挨拶だけになった次第で。思わぬ援軍が現れて事なきをえました。まさに人生いろいろであります。

2009年01月08日

第36話 初夢を見た

昨年の正月にとてつもない大スペクタルな初夢を見てそれをコラムに書いたことがまるで
昨日のことのように2008年は通り過ぎていった。楽しかったこと。悲しかったこと。
はたして2009年はどんな年になるのか。自然の流れに任せるしかないなあと考えています。
さて今年はラッキーなこと?に2日の夜に夢が初上映されました。どんな内容やったかと申しますと!!!

小林和之君(通称お兄ちゃん。ブラッドショットのリーダー、現エピックレコードジャパンの社長)と僕が品川駅らしき大きなターミナルビルのコーヒーショップでお茶を飲んでいるシーンから夢は始まった。そのコーヒー屋は巨大ショッピングセンターのフードコートとは比べ物にならないくらい大きなスペース、そして高級感にあふれていた。

店内のいたる所に観葉植物が配置され間接照明ともあいまってさすが東京はちゃうなあとか話しながら席に着いてまた驚いた。何と各テーブルにはハワイウォーターのサーバーが設置されておりご自由にお水をお楽しみ下さいというサービスが施されている。「お兄ちゃん、ゴッツイサービスやな」と僕が驚くと「松ちゃん、実は水道局とハワイウォーターが合併してさあ,ハワイから海底パイプでハワイウォーターが東京まで来るようになってん。将来的には各家庭にもいきわたる計画が今進んでるのよ」と明石家さんまにちょっと似た口調で説明してくれた。

「フーン、ゴッツイねんなあ」とよーくそのサーバーを見ますとちょうどエヴィアンの1.5リットルくらいのペットボトルをひっくり返した形でラベルにはカタカナでハワイワラーと書いてあった。

さあ飲み物を注文しようと辺りを見回しても1人も店員さんがいない。どうゆう風に注文するのかわからずにいると「松ちゃん、コーヒーでええか」とお兄ちゃんが言うた瞬間にコーヒーがまるで自動マージャン卓からマージャン牌が上がってくるのと同じシステムでテーブル上に上がってきた。僕は驚きを隠せず周りのテーブルもチェックしてみることにした。ところが周りのテーブルには回転すしのコンベアーみたいなものが回っていてその上をコーヒーやケーキなどがぐるーっとまわるシステムになっておりその時点で僕らの席が特別席やったことを知った。

「8時のこだまで神戸帰るんやろ。そろそろ切符買わなアカンで」と促され切符売り場に向かった。そこはどっからみても品川駅とは思えない懐かしい感じのする場所で神戸電鉄の有馬温泉駅とそっくりやった。窓口に行き8時の最終のこだま号新神戸行き禁煙1枚下さいと言いますと駅員さんはB5位のサイズはあるであろう大きな切符?らしき紙に手書きで発行手続きをし始めた。

料金を払い終えると「8時はぎりぎりやねえ。急いでくださーい」とせかされたので多分山手線であろうホームにちょうど入ってきた電車らしき乗り物に飛び乗った。しかしこいつは紛れもなくジャンボジェットでこの世界では飛行機が電車の役目を果たしてるようでどうにも不思議ではあったが疑わずに発車を待った。

ところがなかなか発車しない。そうこうしていますと僕は立っていたのでもらえなかったのですがウェルカムドリンクサービスが始まりだしたりしている。時計をみると19時51分になっていた。アー、シャンパン飲みたいなあとか思いながら時間がないのであわてて下車し先ほどの切符売り場に戻り間にあわない旨を伝えると「伊豆行きの最終の踊り子に乗ってそこから高速船で名古屋まで行き朝一番のこだまに乗ってもらうしか方法はないです」というので切符をキャンセルしてブラッドショットの合宿所に泊めてもらうことを勝手に決めた。

さすが夢やなあと思うのは駅がいきなり三軒茶屋~下高井戸間を走る世田谷線の駅に変わっていたこと。まるで瞬間移動、どこでもドアーである。大沢家政婦紹介所を右に見ながら路面電車に揺られ見知らぬ駅に降りたって線路沿いを進行方向に歩きますとすぐに合宿所にたどり着いた。

小林圭三君(お兄ちゃんの弟、ギタリスト)と壇辻君(ドラマー)が出迎えてくれた。「さっきアニキから電話があって松ちゃん神戸へ帰ったでと言うてたけどどないしたん?」と聞くので事情を説明して一泊させてもらうことになった。「今晩はパーティーやねん。それもヤミ鍋パーティーやから松ちゃんラッキーやで」と圭三が嬉しそうに言った。

合宿所にあがるとちょうど6畳間をふたつぶち抜いたくらいの広さの和室に鍋が3つ設えられてあった。メンバー以外にも初対面の人が何人もいてみんながヤミ鍋とやらを囲みはじめた。どんな食材を入れるんやろかと大きな皿をみますと明らかにニシキヘビのそれとわかるぶつ切りとパイナップルしかのっていない。「名村君が他の材料持って今こっちへ向かってるからボチボチはじめようか」と話しているとタイミングよく名村君(ベーシスト)がみたこともないような原色の大きなキノコと長細いブロッコリーらしきものを持って帰ってきた。

これが今日の鍋にはマストアイテムやとか何とか話している。どうやら僕には食べられそうにもないので、「練習場見に行ってくるわ」と表に出た。練習場は家の外にある空き地にロープを張り巡らせただけの簡単な設備でドラムセットとTASCOM の8チャンネルのカセットMTRが2台おいてあるだけであった。これでどないして練習するんやろかと首をかしげていると青い光が点滅しだした。この青い光の点滅で目が覚めた。青い光の主は携帯電話のメール来ましたよーの合図であった。またしても携帯に起こされてしまった。これでは去年とまるで同じパターンやないか。この光さえ点滅しなければヤミ鍋パーティーに戻れたであろうに。

今晩の夢に期待ということで支離滅裂な初夢でありました。しかしよく考えると去年の初夢にもブラッドショットは出演してくれたし来年も宜しく御願いしますと早めに出演交渉しとかなあきませんな。夢と言えば30歳の頃から54歳の今まで何度もくりかえし見続けている夢を今回お話することにします。

その夢を見出したのはエピックレコードのディレクターになってからで毎回シチュエーションは違うのですが結論から言いますとステージに辿り着けない夢なのであります。ある時は大きな野外ライヴの会場でどの通路をどの方向に行ってもステージに行けない。またある時は舞台の袖まで来てるのにギターが見当たらず出るに出られない状況やったり、バンドはまだ演奏してるのに大道具さんが機材を撤収しだして松浦君は今日は出んでええよと言われたり。その他手を変え品を変えの100種類近いヴァージョンを経験しています。

24~5年も見続けているのにも係わらず一度たりともギターを弾いたことはありません。これはいわゆる悪夢の一種やと思うのですが笑えるのがそのドリームバンドがアイドルワイルドサウスでもツイストでもサンズでもブラッドショットでも、もちろん自分のソロやバンドハズノーネームでもなく決まって「ハウンドドッグ」であるということです。もちろんハウンドドッグとは友達ではありますが一度だけスタジオの仕事をいっしょに演奏しただけなので、今だになんで夢でのバンドがハウンドドッグなのかは解明出来ずにいます。

最近では正月前にも上映されました。この夢とは一生涯お付き合いすることになるんやろなと思っています。なぜこの夢を見続けるのかの理由を追求するつもりもないしこの頃は慣れてきて「あっ、これ夢やわ!」と夢の中で解る時もあるくらい進歩?しています。これを読んで「あー、こうゆう夢あるある」と笑ってもらえれば幸いです。


2009年01月01日

新年明けましておめでとうございます。第35話 宇崎竜童&RU6

新年明けましておめでとうございます。2009年のお正月はいかがでしたでしょうか?
今年は春には待望のシングル、そして出来上がり次第ニューアルバムと張り切って活動していきます。KISS‐FMのSLIDIN’&RAMBLIN’もより良い番組にしていきたいです。そしてコラムもハイピッチで書く?つもりでおりますれば、相も変わりませず応援の程宜しく御願い奉り候。(年末、黒澤明監督作品の観すぎで文章が怪しくなってきましたのでさっそく35話に突入いたします。御免。

第35話 宇崎竜童&RU6
宇崎さんとはファイティング80というテレビ番組にツイストで何度か出演したのをきっかけに顔見知りにはなっていました。前回書きましたようにダウンタウンの新井さんと吉岡君とバンドを始めていましたので全くの初対面というわけではなかったのですがはじめてのリハーサルに行く時は少し緊張が入っていたやもしれません。ツイスト時代からの伝統である鮫ちゃんとの待ち合わせも健在で仲良く四谷の某スタジオへ向かいました。(ひょっとしたらリハーサルの前には事前の顔合わせ的なミーティングがあったかも知れません)。

ご存知のようにダウンタウンブギウギバンドのギタリストは和田静男さん1人だったので
てっきり僕は1人でギターを担当するものと考えていました。ところがいざ蓋を開けますとなんと横内タケ君(TENSAW)小針かつのすけ君(後の竜童組のギター)、そして宇崎さんもギターを弾かれるので僕を入れて計4名のギタリストの揃い踏み。まるで寺内たけしとブルージーンズのような、そして飽きる程言ってますがレーナードスキナードにまたギタリストの人数で勝ってしまうという大所帯のバンドが結成されたのでありました。キーボードはラッキー川崎さん、ドラムは辻野リュウベン君、ベースはもちろん鮫ちゃんで合計7人。今でいうところのサポートバンドでありますから宇崎さんの望むイメージの演奏をするのが僕達の役目。リハーサルはなごやかには進んでいましたが、ことがギターのアンサンブルに及ぶと混迷を極めましたのもこれまた事実。

どうゆう風にパートを分けたのかは今となってはうっすらしか憶えていませんがまるでガンズの新しいアルバムのギタリストの数に近い人数なわけですので正直、曲によっては2人くらい弾かずに休憩したほうがバンドの音としてすっきりはっきりするのではないかなと僕は秘かに考えていました。そしてなるべく抑えたプレイに徹しようと心がけました。でも曲によっての休憩はありえないので苦肉の策?として何曲かでぼくはキーボードを担当することに相成りまして、なんちゃってではありますが昔のようにシンプルなオルガンや初挑戦のシンセサイザーの簡単なフレーズとか、これはこれでなかなか楽しい経験ではありました。

リハーサルもバッチリまとまってきましたのでツアー前の合宿のため河口湖か山中湖へ行くことになりました。基本的に合宿は嫌いやったのでどちらの湖かは忘れました。(しかし合歓の郷だけは別格で心の故郷くらい好きやったです)。

アイタタター、また合宿かー、と内心では深く悲しんでおりましたがそんなことは言えた立場ではありませんし、鮫ちゃんもおるからひと安心やし、そして何よりも僕が考えていたより日数も短かったのでギターパートを考えたり、ラッキーさんからさらなるオルガンのテクニックを伝授してもらったりしてるうちにあっという間に合宿打上げ。合宿所にお化けが出たりすることもなく無事東京に帰りほっとしました。

そしてツアーが始まりました。何しろ大所帯なもので移動も大変。マネージャーは僕達をまとめるのにきっと四苦八苦していたはずやと思います。でも会場に入れば後は百戦錬磨の集団だけに本番前のリハは超スムーズでした。

宇崎さんはダウンタウンの時の楽曲をほぼ封印して新しい宇崎竜童を表現するのに苦労されたと思いますがさすがに超一流。ステージの運び具合は抜群でした。ご存知のように奥様、阿木耀子さんとの名作の数々を演奏しました。ツイストとはまた違うロックがそこにはありました。下手に歌えば歌謡曲にも聞こえるであろう曲を見事にロックに昇華させる。

これが宇崎さんの真骨頂だと毎日感じながら演奏していました。ツアーですので曲順は毎日同じなのですがその日によって歌の表情が変わるのも楽しみでした。殆んどの曲が阿木さんとの間に生まれた子供のような作品ですので感情の入り方がすごいなあとギターを横で弾いてて本当に勉強になりました。ただ困ったことがひとつだけありました。

本編の途中にメンバー紹介があるのですが「オン ギター マツウラヨシヒロ」と紹介される時、決まって僕はキーボードの場所に立っていたことです。ギターと言われているのに鍵盤の前にいる。これはお客さんも笑えたと思います。事実、紹介時に客席からクスクスと笑い声が聞こえた時もありましたが僕は当時からこの性格でしたのでむしろそれを楽しんでいました。困ったといえばツアーも後半にさしかかりバンドも随分慣れてきたある日のアンコールでの出来事なのですが鮫島秀樹が突然何を思ったのか「港のヨーコ 横浜、横須賀」のイントロのあの名フレーズを弾きだしたんです。最初僕らも、そして一番ビックリしていたのは宇崎さんでした。しかーし会場は大盛り上がり。こないなったらやらな
しゃあないとひとり入りふたり入りそして宇崎さんのあの語りが始まりました。僕はそれでもギターを弾かずにその光景を見ていたのですが正直メチャかっこ良かったです。

打上げで宇崎さんが「鮫ちゃん、頼むよ!!!!!」と笑いながら怒った風でも嬉しい風でもなく話してたのも印象的でした。僕は宇崎さんもホッと一息といったところやったんちゃうかなあと感じた次第で。後で鮫ちゃんに「宇崎さんホンマは怒ってんとちゃうか?」
と問うたところ、鮫「大丈夫!、大丈夫!」と例の調子で自分がやったことに対しての責任感どころかヨッシャこれでええんや的自信に満ち溢れてる態度に僕は鮫ちゃんも相当やるなあ。しかし受け止めた宇崎さんはゴッツイなあとお2人に対して新たな尊敬というか自分にはないアートな部分を垣間見たと言いますか。とにかく素晴らしく楽しい日やったことをついこの間の出来事のように今思い出している次第であります。

最初から企画バンドだったのでほぼ1年ちょいでバンドはお開きとなりましたが嫌なことひとつなく楽しいバンドマン生活をおくれたのは宇崎さんと事務所のスタッフの方々のお蔭やったなあと改めて思いかえしております。もう一度行きたかった沖縄でのライヴ&伝説のヒバチステーキにも行けたし最後のライブは確か熊本城の中の広場だったと記憶していますが楽しい1982&1983年でした。
もちろん宇崎さんとの活動の合間をぬって自分のソロライヴもやっていましたし、レコーディングも同時進行で進んでいました。そのあたりのお話は次回ということで。御免!!!


2008年12月26日

第34話 解散したのにアレレー?

明けて1982年、ゆっくり正月休暇をとる間もなく葛城ユキさんのレコーディングが始まりました。有り難いことであります。古い記憶なのでひょっとすると1981年の暮れからスタートしていたのかも知れませんがユキさんの前作には曲の提供はさせてもらったもののギターを弾くことが叶わなかったので満を持してのレコーディング参加でした。僕が作詞、作曲した「YOU’VEGOT THE POWER」を採用してもらいアルバムタイトルもPOWERに決まったのは本当に光栄でした。

そしてPOWERの次のアルバムのタイトルが「LA SPILIT」でアイドルワイルド サウス時代の「MY DADDY」と「DAYS OF BOOGIE」をカバーしてくれて、それもLA録音そしてTOTOのメンバーが演奏という僕にとっては夢のようなお話で。当時のTOTOといえば飛ぶ鳥落とす勢いの人気バンド。ルカサーさんやポルカロさんが演奏するという巨大プロジェクトに果たして僕の曲は通用するのか?と一瞬の不安もありましたが出来上がったアルバムを聴いてひと安心。ええ演奏してはりました。短い時間でのセッションやからちょっとラフかなとも感じましたがホンマモンのビートはさすがでした。

話は前後しますが2月26日にユキさんのコンサートにも一度だけですが参加して82年は順調にスタートしました。

バンドが解散してソロアルバムのお話をツイストが所属していたレーベルからいただいていたので曲作りをはじめました。そしてレコーディングやライブをいっしょにやってくれるメンバーが決まりました。ベースは元ダウンタウンブギウギバンドの新井武士さん。ドラムは同じくダウンタウンの吉岡たかしさん。ギターはバンザイのデカパンこと依田稔さん。キーボードはアイドル時代からの盟友、難波正司さん。

まずは東京と神戸のチキンジョージでのライブに向けてのリハーサルが始まりましたが難波君がどうしてもアメリカへ行かなければいけないことになり悩んだ末に神本宗幸君に御願いすることになりました。なぜ悩んだかといいいますとツィストが解散したばかりなのにすぐいっしょにやるのはいががなものかという、建てまえというか微妙なバランスを考えたのです。が、しかしやっぱり神ちゃんがええという結論が自分のなかで出て電話してみました。答えは一発OKでメンバーがやっとそろいましてなごやかなリハーサルが始まりました。

ダウンタウンブギウギバンドも解散ほやほやだったのでほやほや4人とデカパンという楽しい5人バンドでありました。デカパンはアンルイスさんのバンドの僕の前任ギタリストだったので気心が知れていましたし5人はすぐ意気投合して僕のソロバンドというよりセッションバンド色が濃いバンドにしました。実際5人ともリードボーカルをとる当時の日本では珍しい形体のバンドでありました。5月何日かは忘れましたが渋谷のライヴイン82というライヴハウスではじめてのライヴを決行しました。解散から半年も経たないのでちょっと早いかなとも考えましたがとにかく前進あるのみです。おかげさまで満員御礼で演奏もバリバリでゴッツイええライブでした。

そやけどアンコールが終わっても誰も帰ろうとしません。もうやる曲もありません。楽屋でどないしょうと言うてますと世良君と鮫ちゃんがやってきて「ほな、1曲やろか」ということになり金ちゃんはそのとき観にきていなかったので吉岡君に手伝ってもらってツイストの曲をやりました。お客さんは全員総立ちで「なんじゃ、こりゃ。さっきまで静かに楽しんでくれてたのにいきなりこれかい!」とちょっと微妙な感もあったりしましたが、まあ初ライヴのご祝儀的&突発的出来事ということで演奏者も観にきてくれた全ての人が大満足の夜やったです。

しかし実はこの日だけやなかったんです。6月か7月の2度目のライヴイン。この日はサザンのメンバーや金ちゃんも観に来てくれていました。本編が無事終了しサザンの大森君達とのセッションがはじまりますとさっきまで静かに楽しんでくれていたはずのお客さんが立ち始めました。そして真打ち登場。今回は金ちゃんもみっちゃんも明君も登場。ひょっとして現役時代より盛り上がってるんとちゃうかなという光景を僕は冷静にみながら演奏していました。なんで解散したのにいっしょにやってるんやろ?これは神ちゃんがあの時言った「黙ってフェイドアウトしようよ。そしたらいつでもできるんじゃないの」がやっぱり正解やったんかなあ。

いやいや、元のメンバーが僕を応援しに来てくれてるだけや、と解釈するほかなかった。本当に有り難いことです。そしてこれをずっとやったらアカンなあともこの夜確信しました。これでは他人の名前で出ていますになってしまうもんね。仲間の助けは必要やけど1人で立たなアカンと心に決めました。

大阪のライヴでもゴッツイことが起こったことを書いておかなければいけません。
いつもの調子でゆったりライヴをやっていますと後ろの方で何人かが手を振っている。誰やろかとよーくみますとサザンのメンバーやった。そしてあろうことかサザンオールスターズは僕らのライヴをステージジャックした。何曲やってくれたかは忘れましたがそれは正真正銘サザンオールスターズのライヴでした。

当然お客さんは狂喜乱舞。ステージを降りたサザンのメンバーは梅田の街へ消えて行きました。今思い返すと考えられないことですが僕のライヴではこのような自然現象がよく起こっていました。今度ゆっくり思い出して誰がセッションにやってきてくれたかを書きますね。
しかしレコードに関しては実は良くない結果が待っていました。今でいう内定取り消しであります。時代の先端児でしょう?いや違うか!!

先にも書いたようにツイスト時代のレーベルとの契約が進んでいまして本部長さんと担当のディレクターと政治家が行くようなお座敷料亭でひとつよろしく的なミーティングを行ないデモテープも予備会議ですでに聴いてもらっていたのであとはレコーディングを待つばかりの日々を過ごしていたのですが、ある日を境に担当ディレクターと連絡が取れなくなり自宅に電話しても折り返しがないし、アレーとは思っていたのですがまだマネージメントをどこにお任せするかが決まってなかったので自分で連絡するしか方法はなく、仕方なく丁度昔からお世話になっていたT 氏が同社のディレクターだったので聞いてみると「松浦、おまえマジで何も知らんのか?この前の本会議で松浦のアルバムは中止と決まったんやで。オレはあまりに変な話なので部外者やけどなんで中止かと質問したけど答えてくれなかったな。」

僕はT氏から契約がなくなった話をきいただけでレコード会社からの正式なお断りを聞いていない。まったく理不尽な話ではありますがここはいっちょう荒波に飲みこまれないように気をつけて世の中渡っていかんと大変なことになるなあと身を持って知った次第で。

ホンマは内定取り消しの本当の理由を知りたかったが聞かずに済ませた。聞いてもないもんはないもんと捉え新しいレコード会社、そして所属事務所を探す日々が始まりました。そんな時宇崎竜童さんの事務所から電話があり宇崎さんの新しいバンドに鮫ちゃんといっしょに参加しないかというお話を頂いた。捨てる神あれば拾う神ありであります。正直落ち込んでいたのでメチャクチャ嬉しかった。

さて宇崎竜童&RU6のお話は次回ということで今年1年いつアップされるか分からない僕の四方山話にお付き合いいただき有難うございました。次回は来年になります。皆様、どうぞ良い2009年をお迎え下さい。新しい年がよりいっそう素晴らしい年になりますように。

2008年12月26日  松浦善博

2008年12月06日

第33話 ツイストのあとのコロッケ

いよいよ最後のコンサートツアーが始まりました。とは言っても大阪厚生年金会館での1公演と新宿コマ劇場での3公演という最後にしては以外にさっぱりしたツアーというよりは特別公演といったほうが正しい形のライブでした。コンサートタイトルは『ウイニングショット』解散やのにウイニングショットとはこれいかにと思われる方もおられると思いますがええタイトルやったと思います。

まずは大阪厚生年金会館です。メンバーの家族、友人たちで楽屋は満員電車のごとくでその賑やかな記憶はゴッツイ残っていますがコンサートがどないやったかが正直思い出せない。コンサートのあと何処で打上げの食事会をしたのかすらも記憶に残っていません。そうや、結果的にライブは作本光弘とのツインギターで大上明は参加しませんでした。ホンマに残念なことでした。明君の体調は回復していたので僕はいっしょにやるつもりでいたのですが。でも新宿では何曲かいっしょにやれたので良かったなと思っています。

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2008年10月20日

第32話 解散するとハワイに電話がかかってきた

HIPのツアーも終わり新しい曲のアレンジやアイデアを出し合うリハーサルを続けながら取材やテレビ、ラジオへの出演。いわゆる芸能活動も並行して忙しい日々を過ごしていました。

夏の終わり頃に日比谷野外音楽堂でハウンドドッグとジョイントライブをやりました。ベースの鮫島秀樹は後にハウンドドッグのメンバーに迎えられるのですがこの時はその兆候すらありませんでしたが鮫ちゃんらしいなというホンマにあった話を今回は話してしまいましょう。198?年のいつ頃かは忘れましたが寒くなかったのでまあ春やったと思います。

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2008年08月18日

第31話 HIP HIP HIP

木崎賢治さん、吉野金次さんという当時名うてのプロデュ−サー、エンジニアとタッグを組んで『HIP』と名付けられたアルバムの制作が始まった。今回は5人のメンバーにプラスしてドラムの田中清司さん、キーボードにアイドルワイルドサウスで一緒やった難波正司君。ギターの小林圭三君(圭三に関してはボクからの強い希望により実現)が参加。5人だけで作れないわけでは決してなかったのですが新しい血を入れたかったのだろうと思います。田中さんと金ちゃんのツィンドラム、気持ちよかったなあ。

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2008年06月04日

第30話 箱根

LADYという新曲のレコーディングのため箱根にある由緒正しいロックウェルスタジオへ向かった。東名高速から小田原厚木道路を経ていよいよ箱根に到着かという時に苦い思い出がいきなりよみがえってきた。箱根に来るのは今回が2度目。1度目は中学3年生の修学旅行の時でした。早朝、三宮を出発した鈍行列車が箱根近くの国鉄の駅に到着したのが午後4時頃。どの湖かは忘れてしまいましたがとにかく大きな湖の畔の大箱の旅館に投宿。部屋割りの後すぐに夕食がはじまりました。

ゴッツイ大広間であります。なにしろ約450名の生徒プラス先生方も思いのほか多数なもんで。周りを見渡すとなんと先生方は舞台の上に特別に設えられたお膳で食事されている。その光景は滑稽としかいいようがなかった。見たわけではないのでウソかホンマかは知りませんがある生徒によるとメニューもちょっと違うぞとのこと。まあおおらかな昭和の時代のことであるからしてこれは全然オーケー。

しかーし、全然オーケーやない事件が勃発してしまいました。食後はグループごとに温泉旅館やのにええ?というくらいの短い入浴タイムがあったのですが、なんと僕らが入浴中に女子風呂を覗き見したとX主任?教頭?が怒り心頭で僕らの部屋に怒鳴り込んできた。僕ら以外にも数名疑われてる生徒がいて、いくら『覗いていません。絶対覗いてない』と訴えても聞き入れてくれない。

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2008年05月08日

第29話 近況報告

お元気ですか?最近コラムの更新が遅いと各方面からお叱りをうけております。いやあホンマ嬉しいかぎりであります。
つい最近もツイストの作本光宏君から「次、楽しみにしてるでえ!!」と電話もらったばかりです。しかし気がつけばずいぶん筆が止まっております。筆といっても最近はようやく直接パソコンに入力出来るように進歩しましたので、パソコン打ち?が止まっているというのが正しい表現かも知れません。初めのころは原稿用紙に書いた文を郵便で送っていました。下書きからやり直しそして清書と膨大な時間を費やしていました。そしてそれを間違わないように打ってもらうのも大変な作業でした。おかげさまでこれまで誤字、脱字もなくええ具合に進んでスタッフの皆様に感謝感謝なのであります。

ほんで今年にはいってから何をしていたかと申しますと…

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2008年03月26日

第27話 The Heartrock Partyその2〜第28話へ

ステーキパーティーに遅刻というか置いてきぼりをくった僕もすっかりオキナワの魅力にはまって次の日は集合時間の30分前にはチェックアウトを済ませ、いざオクマビーチへの準備はオーケー。みんなを乗せた大型バスは途中A&W(ハンバーガーチェーン)に立ち寄りここでもアメリカ的空気を感じつつ、でかいハンバーガーを笑い転げながら食べました。このA&W,日本ではオキナワにしか今はなく(むかしは神戸大丸の1階にあったんですがいつの間にかなくなった)観光スポットとしても大人気なのであります。3年前にThe Band Has No Nameのオキナワライブの時も有志を募ってお腹はいっぱいやったけど行ってしまいました。ギターの橘あつやはT−シャツも買いまして僕のアルバムジャケットの中の写真でそれが確認できます。オレンジ色のかっこええシャツです。

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2008年02月17日

第26話 The Heartrock Party

今朝テレビを観ていましたら、なんと懐かしい葛城ユキさんがニュースショウの中の「朝のヒットスタジオ」というコーナーに出演されていた。もちろん歌う曲はボヘミアン。久しぶりにユキさんの元気な声を聴いた。昔より声が出るようになったとコメントされていた。イーグルスのドンヘンリーとグレンフライも今度のアルバムで一段と冴えたボーカルを披露しています。よくだんだん高い所も出にくくなるし往年の声のハリはもうないなあとかいう話があります。僕もしばらく歌ってなくてライブ前に焦る時があります。やっぱり毎日歌ってる人はゴッツイなとあらためて思いました。ギターもそうです。だんだんええ味が出てきよります。好きな音楽聴いてギャイーンとスライドする。やっぱりこれがイチバンの健康方法です。

ほんでなぜユキさんの話をしているかといいますと

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2008年01月10日

第25話 初夢をみた〜夢のつづきを楽しむ

1月7日午前11時半頃、ついに初夢をみた。僕が見る夢にはいくつかのパターンがありハリウッド映画ばりのスペクタル系のものからもろ現実味をおびたシビアー極まりないものまで何でもござれなんですが、もちろんいちいち憶えてはいないし、所詮夢であるからしてその実態というか一体何がどないなってんのか解明しないまま今日までほったらかしてきた。きっとみんなそうだと思う。

本日上映されたのはこんなんでした。
スパークスゴーゴーの元マネージャー,I氏から電話がかかってきた。I氏「松ちゃん、次のバンハズのアルバムのコメント月曜日までに書いてよ。400字詰め原稿用紙1枚書いてくれたらあとはこっちでなんとかするから」いつもながらかん高い声で用件をまくしたてると『じゃあ、ディレクターの名村にかわるから』名村君が電話口にでてきて「そういうことやねん、ひとつ頼んますわ」とぼそっと言った。

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2007年12月16日

第24話 カニorトンネル

この日、ロサンゼルス国際空港は遅れている便が多い模様で国内線ターミナルは人、人、人で溢れかえっていました。僕はアメリカの空港特有のなんとも言えない甘い香りがたまらなく好きです。しかしあれは一体何の匂いなんでしょうか。ひょっとしたらアメリカ政府の陰謀で観光気分を盛り上げんがために「アメリカの匂いの素」なるスプレーを散布しているんとちゃうやろか?イヤそんなわけないわな。
僕達の搭乗するホノルル行きもゴッツイ遅れていまして滑走路を行き交う飛行機をぼんやり眺めながら時間を過ごしていました。そうしていますとインド人らしき人達が僕に近づいてくるではありませか。
それも団体で。そちらをよーくみてみますと懐かしい顔が。なんとマリスト国際学校の後輩達に偶然遭遇したのです。三宮でも会ったことないのにこんな日本から遠く離れた異国の地で遇うなんて。地球は小さいんやなあと思いましたね。彼等はマリストを卒業してアメリカの大学に入学したそうで真っ当な道を歩んでる後輩達を誇らしく思いましたぞ。インド人の生徒はみんなよう勉強ができましたし数学なんかバリバリやったもんね。きっとみんな立派な人間になってるんやろなあ。

ホノルルに着いたのは真夜中でした。機中ではうかつにも眠ってしまい機内食を食いそびれてしまいました。『お目覚めですか。お食事をどうぞ』てなサービスはなかったなあ。唯一のお楽しみやったのに残念なことをしました。空港にはボブさんとスパンキーが迎えに来てくれていました。長い時間待ったそうです。アメリカでは延着は日常茶飯事のことらしいけれどハワイに2.3日しかおられへん僕等には時間がもったいなくて。結局その日はチェックイン後すぐ解散とあいなりました。ニューヨークからずーっと鮫島秀樹君と同室やったんですが二人で腹へったなあとブツブツ言いながらポテチンと寝てしまいました。

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第23話 ピンクのカーディガン

ザ ベストテンに出演するのが好きでした。テレビ番組は画像のことがどうしても中心で音に関してはこだわっていないんやろなと思われることがありましたので得意ではなかったのですがこの番組だけは特別でした。それは司会の黒柳徹子さんと久米宏さんの魔法のせいやったんやろなと思い返しています。

はじめて出たのは「SOPPO」という曲でした。この曲は当時としては画期的なロックンロールで、はたしてお茶の間の皆さんに受け入れられるかどうか心配なところもありましたが最高3位まで上がってくれて僕はホッとしていました。ところが「燃えろいい女」まではずっと1位になってたということをスタッフから聞かされ「ガーン。僕が加入したことが原因で3位までしかいかへんかったんやろか?」とちょっと悩んだりもしました。でも忙しいのが幸いしてかいつの間にやらそんな悩みもどこかへ吹っ飛んでしまってたなあ。ある週のベストテンでのことです。

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2007年08月22日

第22話『森永ハイクラウンチョコレート』

つま恋での大きなイヴェントも無事終了しホッとひといきつく暇もなくツイストへの正式加入の日が近づいてきた。ところが僕にとっても大きな出来事が起こりバンド加入を手放しで喜んでばかりいられない状況になってしまいました。

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2007年07月24日

第21話『裏切り者の松ちゃん』

アンルイスとブラッドショットのライブ、歌番組等への出演は順調にいっていました。もうキイボードを弾くこともなくなっていましたし、ギターを弾くのが楽しくて楽しくてしゃあなかった時代です。ひょっとしたらこの頃のプレイがギター人生の中で一番良かったかも知れんなあと思う位ええ感じで弾けてました。アンとバンド、スタッフの方たちとのコミュニケーションもバッチリで、バックバンドをやってるという感覚は全くなかったです。ホンマええ環境でやらせてもらっていたなと思い出す時がようあります。

この頃58年製のギブソンレスポールモデルのサンバーストとゴールドトップをライブで使っていたというのも今となってはなんとも贅沢な話で、よくもまあネックも折れず何のトラブルもなくてよかったなあと。その2本のギターはもう僕のところにはないのですが今でもええ状態で弾かれているかなあ?

そんなある日の晩、なんとも不思議な夢をみました。夢の舞台は車の中。登場人物は、ツイストの世良君と鮫島君、それに松浦の3人でした。何十年も前の夢やからボヤーッとした記憶ですが、僕が後部座席に1人で座っていてゴッツイ前のめりの姿勢で話を聞いていると鮫島君が『松ちゃん、ツイストに入れへんか?』と唐突に言い出し、世良君はただうなずきながら運転してるだけというそれはそれは夢らしい夢でありました。

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2007年05月28日

第20話『PA PA PA』

東京に引っ越してからなのか、まだ神戸にいたときやったのかは忘れてしまったのですが、ある日ツイストのギタリスト太刀川伸一から電話がかかってきました。あっ、思い出した神戸の家で電話をとったシーンが頭に浮かんで来た。そやそや、フェンダープリンストンリバーブとレスポールを新幹線で運んだのも思い出したぞ。いやいや最近物忘れすることが多く全く困ったもんであります。
ほんでなぜアンプやギターをわざわざ新幹線で東京まで運んだのかというと、ウマさん(太刀川伸一)がいきなり「オー 松、ツイストのレコードで1曲弾いてくれへんか」というのである。ツイストにはウマさんと大上明の二人のギタリストがいるので「なんで僕が弾くのん?」と問うと「スライドやがな」というではありませんか。これは正直うれしかったですね。

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2007年03月27日

第18話『グレッグオールマン、ブギーウギーと連発』

アイドルワイルドサウスをやめた僕と難波君は試行錯誤していました。新しいバンドをやらなアカンという焦りの中でセッションを続けましたがなかなか新バンド結成にはいたらず。
そんなとき元鈴木茂とハックルバックのドラマー林敏明君(トンチャン)が僕たちに声をかけてくれ、五つの赤い風船の西岡たかしさんのバックバンドをやらへんか?という話になりベースにスターキングデリシャスの東山光良(ひっきゃん)が加わり練習がはじまりました。おっちゃんと僕はなぜかゴッツイ気が合いアコースティックを弾いたことのない僕のめんどうを一からみてくれました。
一からにはこんなんも含まれています。お金のなかった僕にはギター弦を毎回換える財力などなかった。そこでおっちゃんはひらめきました。1回使った弦を丁寧に外してくれるのです。その弦を家に持ち帰り鍋に湯を沸かし沸騰したところへ弦をチキンラーメンのように投入し3分ほど待つ。ハイ出来上がり!
あとは自然に乾くのを待つだけ。弦やから食われへんけどあら不思議。弦は1回だけ新品のような音によみがえるのでありました。リハのあともライブのあともおっちゃんは弦を外し続けてくれました。おっちゃんの大変な作業のおかげで僕の弦代は0円でした。これに味をしめた僕はある時ツアー中のホテルのポットでも試してみましたがこれは失敗でした。やっぱりガスでグツグツ炊かんとアカンのであります。いちどお試し下さい。

ちょうどそんなころ、なんとグレッグオールマンが大阪へやってきました。それも厚生年金会館。難波君と二人でアイドルワイルドサウスのレコードを持って楽屋まで面会に行きました。「おはようございます」と堂々と楽屋口からグレッグの楽屋までノーチェックで入れました。レーナードとのライブのおかげで厚年は隅々まで知りつくしていたので辿りついただけでホンマはアポイントもナーンもない無関係者やったんです。今考えると恐ろしい話ですがその時はただグレッグにレコードを渡したい一心でした。レコードを受け取ってくれたグレッグはジャケットのバンド名をみて「ブギーウギー」という言葉を連発しながら僕の手を持って振り回して離してくれませんでした。あれが握手やったらゴッツイ握手もあったもんやと思います。
そうこうしていますとホンモノの関係者の方が現れ僕らは不審者として外へつまみ出されてしまいました。ライブはイマイチ精彩に欠けバンドの調子も良いとはいえませんでしたがグレッグの声だけは天下一品でありました。グレッグに握手してもらった僕は天にも昇る気分であったのはいうまでもありません。

おっちゃんのバンドをやっていたらトンちゃんが桑名正博(マサヤン)のバンドもやらへんか?というのであやめ池にあるスタジオで練習することになりました。バンドの音はゴキゲンで初打上げということで駅前の食堂へ。ここで生まれて初めてビールを飲みました
飲んだといってもコップに半分程やったんですが、結果家までどないして帰ったのか全然憶えてないという状況に。あとで聞いた話では食堂の壁と笑いながらなにやらずっとしゃべっていたそうです。

マサヤンのバンドをやりだして生まれてはじめてスタジオミュージシャンとしての仕事??がきました。東京は目黒にあるモオリスタジオやったと思います。スタジオに入るとそこには鈴木茂さん、林立夫さん、ジョン山崎さん、田中章弘さん、がドーンと座っていてマサヤンが1人1人に紹介してくれました。田中君以外は初対面、そして鈴木茂さんはスライドギターの名手。僕はここで何をしたらええんやろうかナァーとじーっとだまって座っていました。譜面を読みながら録音するのは初めてやし、もちろん譜面が読めるわけでもない。ウーン。まいったナァーと考えていると鈴木さんが「今日はスライド松浦君が弾くんだヨ」と穏やかな話し方で言うてくれました。「えっ、鈴木さんが弾きはるんとちゃうんですか?」と聞きかえしましたが。マサヤンが鈴木さんに伝えてくれていたようです。この時録音した曲は“準備オーケー”“カリフォルニアが遠ざかる”等やったと思います。これらの曲は"MASAHIROⅡ”に収録されています。

そしてこのアルバムから【哀愁トゥナイト】がヒットして大阪フェスティバルホール、中野サンプラザでのコンサートを含むライブにも参加しました。ちょうどこの頃、難波君、ひっきゃん、トンちゃんは東京へ引越しました。僕はというと引越しの決断はつかずマサヤンのバンドは僕のかわりに是方博邦君を迎えてバンドはTEARDROPSへと進化していきます。
僕はおっちゃんとの二人股旅?の道をえらび日本全国いろんな街へ連れて行ってもらいました。このとき、おっちゃんから学んだことがいっぱいあって今でもホンマ感謝しているのであります。ちょっとだけビールも飲めるようになりだんだん大人?のギタリストになっていくんですナァー。そんなときマサヤンが「スライド弾いて」と電話をくれて”テキーラムーン“というかっこええ曲を弾くため、久々に東京へ行きました。そこでマサヤンから重大発表がありました。

2006年11月13日

第15話レーナードスキナードその1『オレのチューニングメーターはどこだ』

 レーナードスキナードがやって来た、1977年1月のことです。そしてなんとアイドルワイルド・サウスと共同記者会見をやるという。「話がちゃうやないかー!!」それもええ方にちがう。全くの前座やと思ってたのに、願ってもない話。それも恐い怖いレーナードにその会場で初対面と聞かされ、そらビビったです。ところがこれがどっこい、また話がこんがらがってきた。レコード会社の方から紹介され、俺達のバンド名をきいたトタン、レーナードのみなさんえらいゴキゲンに、そして友好的になったのです、といいますか最初からええ人達やったワケであります。

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2006年11月01日

第14話『ハイウェイバウンド』

アイドルワイルド・サウス自慢のELFダブルデッカーが壊れた。京都でのライブの帰り道、名神高速をその日も順調にクルージングしてるはずやった。道路上の天候もおおむね良好で何の問題もないはずやった。その日の助手は免許を持っていない僕の番でした。何も車のことを知らんので、テキトウなギャグをかましつつ、ドライバーを眠らせないという役目を十分にはたしていたつもりやった。そやけど異常は刻一刻と迫っていました。光ったことのない黄色いランプがたんまに点滅しているのは知ってはいたけど、キレイやなぁぐらいにしか考えなかったのが後の祭り。実は完全なるオイル切れやったようで、第1エンジンがやられてしまった。

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2006年08月24日

第13話『ホテルの問題』

 村上ポンタさんのチューニングのおかげで2人のドラムの音はバッチリに。しかし、レコーディングには膨大な時間がかかりました。何度もリズムトラックを録り直した。これだけは全員が気に入るまでやった、というか誰かがどこかでちょっとまちがうとやりなおした。“音のIT革命やー!!”は当時なかったので、「せーの」で同録。あとでやるギターソロやボーカルにも時間がかかったが、なんとか出来上がりました。76年の夏の終わりのことです。

 チャールズも2曲に参加。大阪の千日前を2人で歩いている時に「千日やから、サウザンド・デイズやなぁ」から出来上がっていった『MY DADDY』と『台風』はチャールズとの共作です。そして、プロデュースはめんたんぴんの池田洋一郎さん。ずいぶんボクラをリラックスさせ、良い方向に導いてくれました。

「keep on truckin’」と名付けたアルバムを持って、ライブツアーは始まりました。渋谷の「屋根裏」には前から何度も出ていましたが、最高入場者記録を作り、ゴッツイ喜んだのでありました。しかし、数日後にオキナワの紫にすぐ抜かれてしまって、チャンチャカチャーン。そして、ついにデビューコンサートを神戸ヤマハと有楽町読売ホールでやることになりました。ライブハウスとはおもむきが違うコンサートもなんとかうまくいき、たくさんお客さんが入っているのに感動しました。初めて東京の三ノ輪にある「モンド」に出たときは3人しかいなかったお客さんがここまで増えると、うれしいとは裏腹にちょっと恐い気がしたのも事実です。

 プレッシャーを感じつつも、学園祭などのイベントにも参加。名古屋での学祭のライブの時初めてホテルに泊めてもらい、みんな興奮して部屋で花火をしてれらい怒られたこともありました。ウーン、では今までは旅館に泊まっていたのか?という素朴な疑問がそこにはあると思いますが、実はその日その日のいきあたりばったりでライブハウスのオーナーの家、友達の家などに泊めてもらってました。ライブハウスの二階で寝かせてもらったときもあります。泊まる場所がないときはひたすら次の町へ向かうこともしばしばでした。若いから出来たんやろうけど、それでもけっこうキツかったです。イチバンキツかったのは、九州でライブをやり、そのまま走って次の日大阪のM大学の学園祭に出た時かナァー。アメリカのロックバンドの使っているべッド、シャワー付きのツアーバスとは違い、リクライニングなしのELF6人乗りダブルデッカーは、かなり狭かったです。でもエコノミー症候群に誰もならずにすみました。そもそもそんな病気その頃聞いたことなかったです。関係ないけど花粉症もなかったような気がするゾー。

 明けて77年元旦に、東京は平和島でのイベントに参加。(前武のヤングアップ)共演は安全バンド、そして入場者記録を破られた紫。ここは負けるワケにはいかへん。しかしようみると、オキナワの紫はメチャ寒そうにしていて調子がイマイチそう。言い忘れたが、これが真冬の野外イベント。ちゃんと指が動くワケがあらへん。しかしこっちはスライドギター、すべらしとるだけでいけるでー。まあ、冗談ですけど。この時も評判は上々で、終演後またしても日帰り、正月からキツイ行程ではありましたが、僕たちは気分上々でした。

 そしていよいよレーナードスキナードとの共演、いや前座の日々が近づいてくるのであります。前評判ではメチャ南部の野さくれ男の集団で、ゴッツイ飲んだくれて恐いゾーということで、まあ前座やし、交流戦はないやろナァ、サインくらい欲しいナァてな感じであまり期待していなかったというか、ちょっとビビッていたのでありました。

2006年08月06日

第12話『ポンタさんはドラムテクニシャン???』

前座活動を重ねつつその年75年の神戸祭りに出演。そしていよいよ8.8ロックデイの夏がやってきた。73年はよのすけブルースバンドで出たがフェスティバル形式やったので勝ち負けはなしやった。74年からはコンテストに形を変えストロベリージャムで優勝したことは前回書きましたが、今回はやっと結成したアイドルワイルドサウス。どないしても優勝したかった。

この頃すでにいくつかのレコード会社からお話をいただいてはいましたがどれも「よしやるぞ!すぐに東京へ来い!!」ではなかったので難しいことは8.8が一段落してからでええかと。そんなお気楽な感じでした。しかしバンド内は決してバッチリというわけではなかった。何回もメンバーの交代が続き8.8の後に初めて行った東京ツアーの後には森辺君と二人だけになっていました。今、振り返るとその頃の僕はワンマンでキツーイはっきりした性格やった。そやからバンドのみんなもさぞしんどかったやろうなと思います。

その東京ツアーのメンバーは松浦、森辺、チャールズ、ギターで加入した今村君、そしてベースはその後ツイストの再結成にも参加してくれた東山光良というバンド結成時からのメンバーはチャールズと僕だけという形でした。ところがこのバンドが東京でゴッツイうけた。同じメンバーで参加した夕焼け祭りでもうけた。そしてツアーの合間にレコード会社数社のオーディションを受け、その中でビクターはすごく気に入ってくれました。そやけど、「活動できませんねん」と正直に話し、神戸へ帰りました。話は前後しますが8.8は見事落選。いやあ、ホンマ悔しかったなあ!

そんな時夕焼け祭りを主催し小松をベースに活動している「めんたんぴん」とごっつい仲良くなりバンドがしばらく出来ないのでローディをやらせてくださいとお願いし、半ば押しかけ女房的ローディはめんたんぴんについてまわることに。そしてこの短いローディ時代にバンドの運営方法、物の見方、考え方を十分勉強させてもらえました。そんな大好きなめんたんぴんでしたがいつまでもアイドルワイルドサウスをほっとくワケにはいかへん。「一からやり直さなアカンで」とめんたんぴんのメンバーも言ってくれたので神戸へ帰ることにし、メンバーをさがしました。

キーボードは難波正司。マリアというバンドをやっていた難波君はそれまでプログッレシブなロックを得意とするピアニストでしたが、よーしやってみるかと参加してくれました。後に彼のお母さんから聞いた話では、ブルースやオールマンの音楽を死ぬほど練習したそうです。難波君とは桑名正博さんのバンド、西岡たかしさんのバンド等でもいっしょでした。今はカリフォルニアでバリバリ活躍しています。
ドラムは池本忠則。周知神というバンドをやってました。池本君は抜群な8ビートを叩き出すドラマーです。『今日もオイラは』の最初の4小節は池本ソロです。今、神戸の東灘区で“ボガージュ”というケーキ屋さんをやっています。池本君のシュークリームは世界一うまいです。
ギターは神戸のライブハウス「サンダーハウス」で知り合った藤井清和。藤井君はメチャスイートなトーン、そして的確なプレーが出来るギタリストです。ちなみに録音時、僕はメインギターがなくて藤井君のSGを借りていました。レコードジャケットでは二人共SGをかかえていますが実は同じソリッドギターやったわけです。
そしてベースは清昌弘。ストロベリージャムでいっしょにやってた清とはいつかバンドやろなとずっと話してました。東京の公衆電話から何回電話かけてくれたことか。10円玉の落ちる音が忘れられへんです。
森辺君は勤めていた会計事務所を辞め帰ってきました。ヒロはピーターさんをはじめ最近では冴樹みずほさんの『月の滴』をプロデュースするなど大活躍しています。冴樹さんのアルバムにオールマンぽい感じの曲があるそうで早速聴かなあきません。

やっと6人がそろいバンドのコンビネーションもバッチリ。オリジナルもバリバリ出来てこの時、誰1人としてこのバンドが短命に終わるとは思ってなかったでしょう。
6人乗りのトラックを買いやっと日本中ツアーできるようになり、お客さんもだんだん増えてきて考えられへんくらいゴッツイライブやった夜が何度もありました。

そしてついにRECORDINGが始まります。何しろはじめてのことやから右も左もわからへん。まずドラムの音が決まらへん。みんなで知恵をしぼってこのとき思いついたのがドラムをええ音にしてもらうチューニングを村上ポンタさんにお願いしようという荒業。それはもうダメもとでお願いしました。そしてスタジオに現れたポンタさんに一同最敬礼。どえらい感動しました。そしてドラム2台はメチャええ音に!!
今でもポンタさんに会うとこの時の話が必ずでて「オレにチューニングだけやらせたのはあとにも先にもオマエらだけや!!」とニコニコ笑いながら怒ったフリをしてくれます。ホンマに無茶なお願いをきいてくれたポンタさんにあらためて有難うございますです。

現代社会においてはドラムをチューニングするドラムテクニシャンは当たり前になっていますが時は1976年、おそらく日本ではじめてそれを実現したのはポンタさんではなかったかなーと、考えたりします。

日本一のドラマーは日本初のドラムテクニシャンやったワケであります???

2006年07月20日

第11話『前座』

 1972〜3年は関西からいっぱい素晴らしいバンドが出て来た黄金時代です。上田正樹とバッドクラブバンド、ウエストロードブルースバンドなど言いだしたらキリがないくらいにぎやかでええ時代でした。
この頃僕はオールマンブラザーズにハマリッぱなしで、オールマンのコピーバンドをめちゃやりたかったんです。そやけどなかなかメンバーがおらへん。サンフランシスコのノリ君の紹介で森辺浩章君(後にアイドルワイルド・サウスのドラムス)と仲良くなり、「京都へけえへんけ!!」ということに。R大学の軽音楽部でオールマンのコピーバンドをやっているという。学校に着くとデカイ教室からウィッピンポストが聴こえてくる。オーええバンドやナァ。やるナァ!!でもようくみるとギタリストが二人おるでないかい。

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2006年07月04日

第10話『見逃してくれ』

 神戸へ久々に舞い戻って来た。しかし、バンドやりつつ、バイトやり つつ、マリストを中途退学した。そこには中途半端な自分がいた。このままではあかんナァ。アメリカへいったとはいえラスベガスには1カ月おっただけであとはハワイでの極楽生活。なんかホンマモンのアメリカを見てこなかった気がした。

しかし、時すでにおそし。通信教育の高校に入る前にもう1回行きたいナァ。飛行機代前回は高かったナァ。バイトでためたお金はちょっとやし、ギター売るか!!うーん。どないしたらええか?そやけど奥の手発見。ちょうどその頃グアム往復の安いキップが発売になり、グアムからアメリカは学生割引きでメチャ安。オマケに1ドルはもはや360円ではなくなっていた。もう1回だけでという約束でプラリ一人旅に出た。〔もちろん入学出来る学校をさがすという名目で〕

 今度は霧の都サンフランシスコ。またまた、マリストの友人タツノリ君のお世話になり楽器屋めぐり。残念ながら、オールマンやサンタナのコンサートは見れなかったけど、カルロス・サンタナ元所有というリフィニッシュのレスポールスペシャルをGet。今度はケースもついてきた。そして、帰る途中に日本人街のフィルモア通り(あの有名なフィルモアウエストのある場所)の質屋でピカピカの59年製のレスポールTVを発見。200ドルやったのでこれも買った。ケースが5ドルで、しめて205ドルか。しかし、これらのTVやスペシャルをおのぼりさん気分で買ったのが将来的(数週間後)にえらいこっちゃになるとは・・・・

 ノリ君に別れを告げ、いざロサンジェルスへ。ここでも友人のお世話で最初は空港近く(イングルウッド)の激安アパートに。キツーイ雰囲気ははじめからただよってはいたが、ジミヘン好きという黒人のオッサンの部屋に遊びにいったら、こいつがなんとOO。見たこともないような黒くてでっかい大根のようなものをいきなりだしてきよったので、「ボクハ、カラテデキル!!」とウソをかまし、速攻でアパートから逃げ出し、学歴詐称問題で有名なペパーダイン大学の寮でお世話になることに。

いやいや、ジグザグ行進ですワ。これぞLA的生活・イーグルスのティモシーシュミットのポコやジョン・メイオールのコンサートを満喫する平和な日々がもどり、そしてついにあこがれのギターセンターへ。ギターセンターは今では巨大なチェーン店ですが、当時はバリバリのビンテージ楽器屋ではありました。

 店員さんの「メイ アイ ヘルプ ユー?」に思わず59年のレスポールモデルはありますかと聞くと、奥から出てきました!!(この手の貴重な楽器は必ず店の奥から出てくるというのがひとつのおきまり。なんというかこれはちゃうデーという演出がなされておって、現代にもひきつがれております)
 この日生まれて初めてジミーペイジやデュエインオールマンと同じ59年製レスポールモデルを目の前に。しばし放心状態。このギターは当時から高かった。なんと1200ドル(36万円)。しもたァー。サンフランシスコでギター買いすぎた。そこで店員さんに、レスポールTV、スペシャル、もういっちょう赤いスペシャル60年製(こんなんも買うてしもてましてん)の3本とトレードしてくれませんかとお願いしました。

しかし、ぜんぜん話にならんと。お金をプラスしたとしてもこの3本は要らないと言われてしもた。まあしゃあない、そのうち買える日もくるサとメチャ重い足と3本のギターをひきずり、ペパーダインへ帰りました。友人に話すと「オマエ、メチャアホやな。LAはギター安いし、スペシャルやTVは二束三文やでぇ。どないすんのん。」と言われてしまった。ちなみに、サンフランシスコでのギター3本の合計額は1000ドル弱でした。そんなアホなLA生活でした。

そして、結局本来の学校さがしの目的などキレイサッパリ忘れ、ペパーダイン大学の寮とお別れして、(ホンマに泊まってんで。詐称やないゾ。)ホノルル・グアムを経由して帰国することに。途中のホノルルでまた、ひと休み。やっぱりハワイやなと思いつつグアムへ。ところが、グアムの空港で大問題勃発。なんと安売りキップの期限が切れていたのであります。

この時どういう風にこの問題を解決したのかを今となってはおぼえていないのでありますが、キップを買いなおしたり、追加料金を払った覚えがないので、きっと航空会社さんがゆるしてくれたような?きっと僕も「見逃してくれ!!」を連発したようなかすかな記憶があります。どちらにしても、とんでもなくオモシロイ旅であったことにはまちがいなく、こんなええ経験をさせてもらえたことに日々感謝感謝なのであります。

2006年05月27日

第09話『ストラトキャスターからレスポールゴールドトップへ』

前回、ラスベガスへ行く途中のハワイでストラトを買ったことに少し触れました。

 ホノルルのカイムキ地区ワイアラエ通りに「ハリーズミュージック」という老舗の楽器屋さんがあり、テッド君の親戚やということで、訪ねてみました。
 だだっ広ーい店の中にはフェンダーギターが色々展示されていましたが、やっぱりストラトキャスターでないかいということに。このギターはサンバーストで、シリアルNo.が29万台、ラージヘッド、モダンロゴの70年頃のものだったと思います。
 親戚のオジサンは、もちろん清水の舞台から飛び降りてくれて、なんと293ドルにしてくれました。しかしケースを買う余裕がなかったので、ダンボールごとお持ち帰り。ストラトキャスターは晴れて生まれ故郷米国本土へ僕と共に戻ることに。

 最初は調子よく弾いていたんですが、トレモロアームをつけたとたん、けったいなことに。どない調整しても素人の僕にはあかん。近所の楽器屋さんらしい店のオッチャンも“ブロークン”や言うし。困ってしまったんです。とにかくトレモロブロックが浮きっぱなし。全とっかえするしかない。
 時を同じくして僕も壊れてしまい(喘息か?)、こわれたもん同士、又ハワイへ行くことになりました。

 早速ハリーズミュージックへ。オジサンも“ソーリーソーリー”を連発、次のストラトの入荷までに大分時間がかかるということで、お金が戻ってくることになり、その足でダウンタウンにあるセイヤーズピアノへ。ここはギブソンが多い店やった。

 そしてなんと、夢にまで見たゴールドのレスポールがぶら下がっているではありませんか。このギターは1969年製の最初のレスポールデラックスで、ミニハムバッカーが2つついていた。このままで十二分OKなんやけど、ふとパーツ類の棚を見ると、クリーム色のP-90があるやないの。
 「こいつを2個オマケしてもろていくらですか?」と。しかし、ハリーズとは違い、ここでは一見さん。チャイニーズのオッサンは、423ドルにしかならんという。しかし今度は僕が清水の舞台から飛び降りる番。メチャ無理して買いました。もちろんケースなし。

 この日からラジオを聴きながらよう練習するようになりました。やっぱりレスポールがあってたんやろナ。
 ちなみに、この日生まれて初めてのスライドバーなるものも購入。それまではアリナミンのビンしかなかったので、やっと準備が整いました。

 ハワイのラジオはようできたもんで、一日中ロックがかかっている。特にオールマンブラザーズやサンタナあたりがよくかかり、ギターを抱えて待っていると、大体練習できる段取りになっとりました。

 ところで、やはり423ドルは痛手で、お金が底をついてきた。

 こっそりリキリキドライブインで夜中のバイトしたりしてつないでいましたが、ある日オモロイ話が舞い込んできた。ペプシコーラの日本のコマーシャルのエキストラのオーディションがあるという。こら乗らん手はないっちゅうことで オーディション会場へ。
 ホテルのプールサイドが会場で、立たされたり、横向かされたりで、結果合格。
 早速ノースショア方面へ連れて行かれました。撮影は一日中続き、最後はハレイワの川が海に注ぐあたりで1人だけのショットというのもあり、なかなかオモシロイ一日でした。

 後日このコマーシャルを見たら、海岸を走っている自分がおった。いやぁえらい興奮しました。まぁこれがいわゆるデビュー???っちゅうヤツやったワケでありまして。
 中3のときにグループサウンズになることはあらかじめ決めてあったので、これが何かのチャンスにつながればなと思っとりましたが、何もおこることはありませんでした。残念!

 そして、天国みたいなハワイでの学生生活にも悩みがでてきました。

 親に無理させてアメリカまで勉強しに来てるのに、高校出たらハイサヨナラはないなぁ。卒業後ハワイ大学なんてことになったら、あと6年も日本に帰られへんし、ウーン、どないするかなぁ。ハワイにはいたい、学校も楽しい、バンドはやりたい、しかしハワイでバンドはあかん。ウーン・・・、「そうや神戸へ帰ろう」
 このイージーすぎる発想のもと、ヨシは生まれ故郷に帰ることになりました。

 神戸へ舞い戻り、マリストへ復学するも、練習にいそしむ日々のため、学校は休みがちに。しかし金曜日には登校してダンスパーティにだけは出るという作戦は、先生方にメチャ不評。だんだんいづらくなってきたゾ。

 結局、通信教育で高校を卒業することを条件にマリストを中退。晴れて?アマチュアミュージシャンの道を歩むことになりました。

2006年05月20日

第08話『オマエノ ナマエハ キョウカラ“マット”ダ!!』

マリストの同級生トミー君がラスベガスへ帰っていった。ゴッツイ遠い所へ転校しよるナァ、さすがやナァと。そのトミー君との文通が始まり、ネバダ州の公立高校は授業料が無料で、そしてそして、考えられないことに、なんと観光ビザでも、保証人さえいれば入学OKということがわかってきた。

 このオイシイ話に飛びつかないワケがない。この日からなんとか親を説得する史上最大の作戦(?)が開始されました。
 トミー君の父上は「保証人になったるでぇ」と快くOKしてくれました。しかし当時1ドルは360円。下宿代を安くしてもらってもやっぱり高い。オマケに飛行機代が、伊丹−羽田−ホノルル−LA−ラスベガスの往復で30万円強。(直行便はなかったし、H.I.S.はもちろんなかった!)これはアウトやろなと思ってましたが、父ががんばって魚を多めに売って(??)なんとか行かせてもらえることになりました。

 生まれて初めて乗ったジャンボジェットは、そら華やかで桜の花の中にいるようなムード。機内食もおいしかったし、飛行機が大好きになりました。

 そしてホノルルへ無事到着。2泊しました。ここでもマリストの友人テッド君の学校の寮にもぐりこませてもらいました。
 もちろんハワイは初めて。そして一瞬にして大好きになってしまった。もうラスベガス行かんでええんでないか〜ちゅうぐらいええ所でした。ワイキキの大通りには提灯がいっぱいぶらさがっていて、古いええハワイを体験できて、ホンマ良かったです。
 そのハワイで買ったストラトの話は次の回に書くとして、生まれて初めての連発が続きます。マクドナルドの魚のフライとチーズのはさまったパンのうまかったこと。ダイエットコーラも薄くてうまかった。サイミンもうまかったのかまずかったのか、もう夢の中の2日間でした。

 そしてついにラスベガス到着。空港には懐かしい顔…トミー君、父上、そして妹のキャシーさんも来てくれた。いやいやゴッツイ遠いところまで来たもんや。ラスベガスも今のようなド派手なところではなく、ちょっとさびれた歓楽街のような風情でありました。

 次の日、早速ランチョウハイスクールで入学手続き。イッパツOKで、その日から早速授業。この高校は巨大ハイスクールで、1日2部制、僕は午後の部に転入。12時から5時までという楽勝パターンの学校生活が始まりました。
 生徒数約4千人、うち日本語を話すのは僕・トミー・キャシーの3人だけという、それはオソロシイほどアメリカやった。しかし、マリストに比べて勉強がカンタン。多少は英語もわかるようになっていたので、授業にはなんとかついていけました。


ランチョウハイスクール校門前と砂漠のど真ん中で
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 しかし、困ったことが勃発。僕のことをみんなが“MATT(マット)”と呼び出したのです。「ちょっと待ってくれ、ボクはマットでもソファーでもないぞ」と言いたかったが、時すでに遅し。あきらめてマットに変身しました。

 2週間ほどたったある夜、マットは突然ゴッツイ咳の発作に襲われました。喘息なんかなかったはずやのに、いきなりの発作にびびりまくり。このラスベガスの気候が体に合ってないという診断。なにしろ夜はメチャ寒で、昼間は道路でステーキが焼けるような砂漠のど真ん中。協議の結果、ラスベガスでの学校生活を断念する事に。
 しかし、一体どのツラさげて神戸へ帰る?何かええ方法はないか?トミーとも相談して、答えが出ました。そうや“ハワイへ行こう”。こうして、ラスベガス滞在わずか1ヶ月にして、ハワイへ逆戻り。

 またもやここで問題が!!アメリカは州によって法律が異なり、ハワイ州では学生ビザがないことにはどないもならんことが判明。

 しかし世の中捨てたもんやなかった。母親の宝塚時代の同級生がホノルルに住んでおられることを知り、失礼を承知でアポなし訪問。事情を説明したら、なんとありがたいことに保証人を引き受けてくださった。
 このおかげをもって、ルーズベルトハイスクールという高校に転入できることになり、天国のようなハワイでの生活が始まりました。
 喘息はすぐに治り、水がうまい・メシがうまい・空気がうまいの3点セットに超満足。学校もええ感じで友人もすぐにでき、毎日25セントの給食を2セット食ってました(この頃からちょっと太りだした…ワッハッハ)。

 そして、今度のニックネームは“サカナ”。実家が魚屋やからというレベルの発想からのネーミングに、さすがに勘弁してくれ!!と。その後“ヨシ”に名前は変更され、穏やかで素晴らしい日々が過ぎていくことになります・・・??

2006年05月13日

第07話 『魚屋の息子、英語でフランス語の授業を受ける』

中学を卒業し、なんとか高校へ進学しました。が、自分の中で「何かが違う、何かが違う」の日々が続いていました。
 例えば髪の毛のこと。子供も、大人も、グループサウンズ(?)も、そして、一部の高校生も髪伸ばしてええのに、なんで僕らんとこは丸坊主やないとあかんのか、素朴な疑問でした。

 その頃、僕は“瘍”(「よう」=オデキのきついヤツ)が頭や顔にたくさんできて、散髪もできないほどひどくなった。しかしこれが逆にラッキーで、結局自然に髪を伸ばすことができてしまった。
 が、長髪禁止の学校が許してくれるわけもなく、協議の結果、病院で包帯を巻いてもらって隠せということになり、頭がフランケンシュタイン的生活を強いられることとなった。
 そのうち瘍も治りはじめ、お医者様も「そろそろ包帯とって散髪していいヨー」と言い、メデタシメデタシなんやろけど、いやちょっと、それは困った。僕は言いました。
「なんとかずっと包帯を巻いとってもらえませんでしょうか?」
 しかしお医者さんもインチキはでけへん。しゃあないので薬局に行き、大量に包帯を購入し、自分で包帯をまいてまだ治っていないことにして登校していました。
 しかしそんな愚かな作戦がいつまでも通じるワケもなく、職員室に呼ばれ、「松浦、オマエ、何考えてんねん。包帯のこと、学校中でバレバレや。ええかげん散髪してくれ!!」とお願いされちゃったりして、先生も気苦労が多いんやなと思いましたが、これだけは譲れません。「まだ完治してないのです。」とウソをつき、その場を切り抜け、フランケンを続けました。

 次の年の1月、髪の問題とは全く違う理由でマリスト国際学校へ転校。
 この学校は、全ての授業を英語で行うインターナショナルスクールでした。平成の世においては多くの日本のお子さんが国際学校へ通う時代になりましたが、当時としてはそれはそれは珍しいことで、「なんで魚屋の息子が横文字の学校行ってんねんやろうか?」と言われたもんです。

 入学当初は特別英語クラスでの特訓、まさに英語漬け。そして9月、いよいよ新学期が始まり、僕は7年生(小学校6年+中学1年)に。「チョットマッテクダサイ、ボクハ10ネンセイ(小学校6年+中学3年+高校1年)デス!!」…そうなんです。英語力がない子は中1にあたる7年生からやり直し。そんな7年生でも始めはついていくのが精一杯。
 しかし、「また中1からかいな」と悲観するかと思いきや、厳しいけれど自由な校風に馴染みまくり、先輩・後輩の変なしきたりのない世界がいかに美しいかを知ることに。そして次の年には1年飛び級して9年生になり、一瞬順調やなと思いました。

 ところがそれがドッコイ、まず日本の学校と解き方がちがう幾何学、科学も記号1つ覚えるのに四苦八苦。そして極めつけはフランス語です。アンドゥートロワも数えられないまま授業に突入し、それも英語での授業やからチンプンカンプン。どっちが英語かフランス語かもわからん時もあった。先生もさすがにお手上げで、1ヶ月ほどでそのクラスをクビになって「ニホンゴノクラス イキナサイ」ということに。
 しかしこっちはこっちでシビレタで。教科書は小学校低学年のもので(このクラスも英語で日本語を教えるねんで)、さすがにこのJAPANESEだけはいつも通信簿はA。そんなジグザグした学校生活でした。

 ここで話も飛び級しますが、一番楽しみやったのが金曜日のダンスパーティ。髪は十分伸びたし、金曜日の夕方が待ち遠しくて。

 神戸にはもう一校「カナディアンアカデミー(CA)」という国際学校があり(ドイツ学校もあるで)、そのCAでのパーティで大村憲司さんのギターを初めて聴き「これは僕もやらんといかんナァ!!」と一発奮起したのです。大村さんは黒のレスポールカスタムを抱え、それはそれはカッコ良かった。司会の生徒さんが「フィルモアでライヴやってきたケンジ」と紹介。いやいや昔からゴッツイ人やったんです。

 そのパーティの日を機に、バンドの猛練習が始まりました。ドラムの細田君、ベースの炭谷カメ君と、ホンマ何もわからんなりにようやったと思います。その結果、ダンスパーティにも呼ばれるようになり、みんな楽しそうに踊ってくれるし、バンドやってるのが楽しくてしゃあなかったナァ。
 バンドの練習もやけど、個人練習もせなあかんので、そのうち学校をサボるようになり、金曜だけ登校して夜のパーティに出るというパターンに。そんなパーティのある日、ブラザーマシュー校長先生にえらい怒られた。「エイゴ シャベレナイヒト バンドダメ!!」・・・あっちゃー、でも、ごもっともでございます。

 実際、英語は中途半端になってしまったけれど、マリストに入学したおかげで、バンドはハンパにならなかった。僕にとってはどんなに素晴らしい芸術大学を出るより誇りに思える「マリスト国際学校」であります。

2006年04月10日

第06話 『1970年のコンニチワ』

大阪で日本万国博覧会が開催されました。終戦から25年、日本にとってホンマに明るい時代がやって来ました。

 僕も明るくトリオバンドを結成。国際学校のダンスパーティや、ヤマハの5階で行われるアマチュアコンテストによく出ていました。
 レパートリーはというと、レッドツェッペリン、グランドファンクレイルロード、ジミ・ヘンドリックスというあたり。みんながたどったのと同じ道でした。 特に好きやったバンドはツェッペリンとフリー。ポール・コゾフのギターがたまらなく好きでした。

【好きやった曲ベスト3】
1.リビングラビングメイド/レッドツェッペリン
2.影をふんで/フリー
3.腹黒い女/オールマンブラザーズバンド

 当時は邦題がついてる曲が多く、直訳もろのもあったし、全然ちゃうオシャレなタイトルのもありました。 例えばシカゴの“25 or 6 to 4”が“長い夜”など、夢も希望もあったええ時代でした。

 それで、万博。

 どこのパビリオンかは今となっては思い出せないのですが、打ち上げパーティのライヴを頼まれまして、港楽器社からアンプをレンタルついでに軽四も借りて、到着しました万博会場。ところが万博はもう終わっていたので、祭りの後の静けさというか、兵(つわもの)どもの夢のあとと申しますか、もぬけの殻の会場。その上夕方に着いたので、それは寂しい万博でありました。

 楽器をセットし、パーティは粛々と始まりました。そしていよいよ僕らの出番とあいなり、何曲か演奏をし、みなさん盛り上がってきました。

 ここで、ジミヘンの“紫の煙”。ジミヘンをやるのはこの日が初めてやったので、ドキドキしながら始めたんですが、何か変や。アンプがブツブツいってる。ブツブツがバツバツになり、バリバリに変わり、ガーッと絶叫してその上煙を出しだした。

 これにてライヴ終了。音が出ないのはどうしょうもなく、主催の方も「仕方ないネェー」ということで、ゴチソウをよばれて、帰途につきました。
 色々なパーティやコンテストに出ましたが、アンプから煙が出たんはこのとき1回こっきり。それも“紫の煙”の最中(さいちゅう←もなかではない)やなんてシャレがきつすぎました。

 万博事件と前後して、三ノ宮のプールで開かれたアマチュアロックコンテストで見事2位に輝いたこともありました。
 ところが思い出せないことがあるのです。バンドの名前です。どんなバンド名でライヴに出てたのかがサッパリ思い出せません。桂三枝のヤングタウンというラジオにも出たのに、いっこうに思い出せん。そろそろ始まってきたかもアルツハイマー。いやいや困ったもんです。

 このコラムを書き始めてから、断片的に色んなことを思い出しつつ書き進めてるワケでありますが、まだ16才までしかきていない。36年分思い出すのに、やれやれ、あとどのくらいかかるのやら。

2006年04月02日

第05話 『テレキャスター?エスクワイヤー?』

初めて買ったエレキギターはビクター製で、ビザールもええとこの6,980円でした。

 テレビで観るグループサウンズは、様々なギターを使っていました。リッケンバッカーに似たハニーやメーカー名もわからないものが多かったと思います。
そんな中、ジャガーズには2人のギターがいて、ある番組(多分「ヤング720」)で2人がおそろいの白いかっこええギターを弾いているのをみて、イッパツで持っていかれました。

 その日以来欲しくて欲しくて、三宮にあるアオイ楽器においてあると聞いて、早速見に行きました。 そのギターは赤色(キャンディアップルレッド)で、ビグスビーのようなアームがついていて、ヘッドに「ELK」とありました。
 当然ジャガーズのギターがフェンダー製であることなど知る由もなく、36,000円を2割引にて購入。このギターは一流品?で、「エルク・カトラス」という名前でした。 (→第1話の写真を見てください)ゴッツイゴキゲンに弾いていましたが、ある時これがコピー物ということを知り、メチャショック。色は違うけどジャガーズといっしょやと思っとったのに。しかし1年以上使いました。

 で、本題はここから。

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2006年03月24日

第04話 『ゴールデンカップスとハンバーグランチ』

またまた中3のとある土曜日の午後、今度は坂根君と一緒にミナミのナンバ一番というジャズ喫茶までゴールデンカップスを観に行こうということになり、まずは梅田で腹ごしらえにと140円のハンバーグランチを食べ、いざ会場へ。

ナンバ一番は薄暗いビルの中にあり、意外と地味で、開演30分前にもかかわらず人気(ひとけ)が少ないのにちょっと不安になりつつ、キップを買わなあかんのでキップ売り場へ。
そこには小さなハリガミがしてあり『本日のゴールデンカップスの公演は中止になりました。代わりにザ・ダイナマイツが出演します』となってました。
「これはえらいこっちゃ、どないしてくれんねん」と叫んでも後の祭り。
結局ザ・ダイナマイツを観ることにしました。

このときのギターが山口富士夫さんだったことは後日知ることになるのですが、初めて聴く外国っぽいサウンドは、カップスショックを十分忘れさせてくれるものでありました。
「トンネルぬけてー」という曲のこの言葉がずっと耳に残っています。

10年ほど前、元ゴールデンカップスのルイズルイス加部さんとセッションした時、「なんであの時ナンバ一番キャンセルしたん?」と質問したところ、当たり前といえば当たり前なんですが、「そんなの覚えてるわけないじゃん」と言うてはりました。

加部さんのギターはゴッツイですよー。何度か一緒にやらせてもらったけど、天才や思います。あんな音誰にも出されへんです。ベースもスゴイけどギターもスゴイ。機会があったら是非聴きに行ってください。

ということで、ライヴも終わり帰途についたのですが、どうも気持ちが悪くなってきました。熱もちょっとあるようで、家にたどり着いたときには立派な病人に成長してました。
またまた松井先生(→第2話参照)の登場です。
食中毒ということで、上から下から右から左からそれはもう大変で、ツライ数日を過ごすことになりました。

それから数年間、練り製品(ハンバーグ・シュウマイ・豚まん・ワンタン等)は食べられなくなってしまいました。
アメリカのマクドナルドの牛肉100%のパテのおかげで、ハンバーグはOKになりましたが、今でも豚の練り製品はあまり好きではありません。
横浜名物のシュウマイ弁当を新幹線の横の席で食べられると、僕は席を移動せざるをえません。
シュウマイには何の恨みもないんですが、あの時のハンバーグはシュウマイに近かった?・・・のかもしれません。

サメちゃん(元ツイストのベースで大の仲良し)は、ツアーの時、新横浜から来る僕の携帯に「シュウマイ弁当買って来てぇや」と連絡を何度かしてきましたが、そのリクエストにこたえたことは一度もありません。「売り切れ」とかテキトウに答えてました。この場を借りておわびします。

The Sons(サメちゃんがやっているバンド)は、4月からツアーだそうです。
サメちゃん、シュウマイ弁当食べてガンバレ!!

2006年03月18日

第03話 『オックスは失神しなかった!』

中学3年の時かなぁ。
ある土曜の午後、制服のまま大阪梅田までオックスのライヴを観に行きました。
オックスは当時大人気のグループサウンズで、会場の名前は忘れましたが、今でいうライヴハウス(当時はオシャレにも「ジャズ喫茶」と呼ばれてました)でのコンサートでした。

観客はというと、僕以外全員女性。若いオックスファンの女の子の中にただひとりの男、それも丸坊主の中坊。正味やなぁと思いつつ2階の一番前へなんとかもぐりこみ、ライヴが始まりました。

今のコンサートは短くても1時間半、長いのになると3時間ちゅうのもありますが、当時は1日に何ステージもやるため、確か40分くらいの超短いステージでありました。

“ガールフレンド”、“ダンシングセブンティーン”、“スワンの涙”とヒット曲のオンパレード。丸坊主もだんだん興奮してきて、エンディングで起こるであろう“失神”を心待ちにしていました。

オックスは失神バンドと呼ばれていて、ラストの曲“テルミー”(ローリングストーンズ)でキーボードの赤松愛が感極まって失神するパフォーマンスがお決まりとされていました。

ところがどないなことか、淡々と演奏は進み、サササーっとライヴは終了してしまいました。お客さんも不満らしく、なかなか帰ろうとしません。これでオシマイ。「金返せー!」と叫んでいるファンも数名いました。(さすが大阪!!)

まぁ今考えると毎回ウソでも失神するのはしんどいやろうし、これはしゃあないかなーと思うのでありますが、何せ頭の中は”失神”でいっぱいやったもんで、中3の丸坊主は、かなりショックでした。なけなしの小遣いはたいてこわごわ梅田まで1人で行ったのに、どないしてくれんねん、と。

この日を境にちょっとシブイ路線に乗り換えました。
そしてゴールデンカップスにのめりこんでいくのであります。

2006年02月15日

第02話 『知恵熱のおかげで52才の今もロックを』

1970年(多分)レッドツェッペリンが初来日。
大阪でもフェスティバルホールで2日間やってくれました。

早速2日分のチケット(A4ぐらいの大きさの変な切符やった)を買い、1枚目〜3枚目を必死に聴いて、その日を待ちました。
友人達のウワサでは、六甲山のホテルに泊まっていて、ドンチャン騒ぎをして、部屋を破壊してからヘリコプターで会場にやってくるとのこと!! ホンマのようなウソのような話でもちきりでした。本当はハイヤーで会場入りしたそうです。普通やナァ。

そして、前から3列目の真ん中のシートで興奮して待ってると始まりました。
”移民の歌〜ハートブレーカー”、知らん曲(ブラックドッグ)、”あなたを愛し続けて”と続き、怒涛の3時間30分。
途中、メンバーがイスに座ってのアンプラグドとなり、周りで「なんやフォークかいナァ」とブツブツ言ってたのが印象的でした。

とにかく、すごすぎる音にやられました。
もしこの日のライブを観ていなかったら、僕は今ロックをやってなかったやろうなと思います。
今までたくさんのライブを観てきましたが、この日のツェッペリンが今でもダントツNo.1です。

そんなこんなで興奮したまま朝を迎え、体調の変化にビビッた。
えらい熱が出てまして、計ると39℃を超えている。
松井病院に行ったら、「風邪でもなんでもないただの熱や、寝とけー」と言われ、泣く泣くその日のライヴはあきらめました。 残念でなりませんでした。

ひょっとするとあの熱は知恵熱ちゅうヤツやったんかなぁ、と。
あのツェッペリン熱のおかげでいまもロックをやれてるんかもしれません。
イギリスの方に足を向けて寝たらバチがあたりますナァ!!

2006年02月02日

第01話 『オカンはタカラジェンヌ』

20060202.jpg○中3で初めて買ったギター”エルク・カトラス”をプレイ

母が宝塚歌劇団出身(なんとタカラジェンヌ!)で0才の時から月に2回は宝塚を観に行ってました。 オーケストラボックスから響いてくる音に子供心がくすぐられたのが音楽を始めるきっかけです。ドラムに強く憧れてました。

小4の時、TVのCM(7UPのCM)から流れてきたヴェンチャーズの「ダイヤモンドヘッド」にイカれて、小5で初めてギターを買ってもらい弾き始めました。 となりの家のケンちゃんと一緒に演奏してましたが、今思うと僕のパートはベースでした。何も知らない古き良き時代です。


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