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第19話『全員集合』

テキーラムーンは”サードレディ“のB面の曲でしたがアメリカの砂漠がドカーンと瞳に浮かんでくる名曲です。理由は聞きませんでしたがその後に出た”テキーラムーン“というアルバムにはこの曲は入っていませんでした。

しかーしその次に出たライブにはちゃんとはいっています。渋谷公会堂で収録したこのライブ、僕も久々に参加してみんなに「あいかわらず音デッカイなあ!」といわれるくらい爆音で弾いています。
そのライブリハの時マサヤンから『松ちゃん、アンのバンドやってくれへんか?』という重大発表がありました。アンとはもちろんアンルイスのことです。あまりの急な展開にビックリ、そやけどアンはメチャええ人やしここはいっちょうやらせてもらおうということになりました。

その頃僕は神戸でブラッドショットというバンドに入っていました。ブラッドショットはトリプルギター、ベース&ドラムという編成でアメリカンロックをドーンとやるええバンドでした。神戸へ帰った僕は小林兄弟、名村君、壇辻君に「東京へ行ってアンルイスのバンドやらへんか?」と相談。みんなそれぞれ戸惑いや不安もあったと思いますが全員一致で「よっしゃ、やらせてもらいましょう!」ということになり1979年1月初旬家財道具一式を持っていざ東京へ。


しかし申し込んでいたアパートがまだ完成しておらず最初の2週間ほど元ウエストロードや紫のマネージャーだった武岡君の家に5人で転がり込みました。さすがの武岡君も5人に突如転がりこまれたもんで困り顔でしたがそれはそれは楽しい合宿生活でありました。そして1月中旬三軒茶屋のS和ビルは見事完成をむかえ無事5人は世田谷区民とあいなりました。

アンとのリハーサルが始まりました。「女はそれを我慢できない」や「女にスジは通らない」あたりはトリプルギターでバッチリ。しかしヒット曲「グッバイマイラブ」などのバラードはどない考えてもギター3本もいらへん。
そこで昔とった何やらで、なんちゃってオルガンを僕が担当することに。清水さん(敏腕マネージャー)にオルガンを使いますと伝えるとハモンドオルガンとレスリースピーカーが数時間後にゴーンと登場。さすが天下のワタナベプロなのであります。

営業の仕事で常磐ハワイアンセンターへ行ったときの話です。その日のセットリストをみるとなんと僕は全曲オルガンではありませんか!ハワイ?まで来てギター1曲もなしかいと笑っていいのやら何なのやら?常磐ハワイアンセンターは巨大ドームの中に突如ハワイが出現というのがコンセプトのヘルスセンターのようなジャングル風呂のようなところでちょっと湿度が高いんではないかいとは思いましたがたっぷりオルガンを弾いて確か日帰りしたような記憶が残っています。(現在は名称がスパハワイアンズに変わりましたが映画“フラダンス”の舞台となった由緒正しい日本の観光地のひとつです。)

NHKノド自慢のゲストに僕1人だけがアンに同行してNHKバンドの方達といっしょに演奏したり、大阪のテレビ局では木田太郎先生のオーケストラと演奏したり、芸能界の洗礼をいきなりという感じの毎日でした。

そんな中でも8時だよ全員集合に6回も出られたことは今となっては素晴らしい思い出です。会場の駐車場で志村ケンさんとキャッチボールしたことや、本番直前30秒前に大道具さんの機材が僕のギターのネックと接触してネックが折れたままの状態でなんとか演奏したことなどイヤーほんま懐かしい限りです。

春のツアーが始まることになり、いつまでもなんちゃってオルガンではマズイやろという話もチラホラ。ちゃんとピアノ弾けなアカンナァとは思っていましたがやっぱりギターに専念したいし。そしてキーボードに元ブラッドショットの平井君が参加することになりアンルイス&ブラッドショットは7人組になりました。

東京にもボチボチ慣れてきてはいましたが仕事が終わりS和ビルに帰りますと毎晩がそれは修学旅行のようで、桑名君のバンドのトンちゃんも引っ越して来てますますにぎやかに。三軒茶屋のミックテイラーこと新井清貴(ティアードロップス)もご近所ということもありちょっとしたコミューンが形成されつつありました。

新井君以外は全員関西弁でここが世田谷やとは全く感じない日々でした。そのうち青山界隈にも進出。当時一番オシャレやったQ’sBarというような場所にも入り浸るようになりイヤイヤそれは絶好調の東京生活のはじまりではありました。

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コメント (5)

初めまして。松浦さんのブログを拝見しておりましたら、新井清貴さんの事が書いてありましたのでコメントさせて頂きました。私は清ちゃん(新井清貴)とティア・ドロップス解散後、一緒にバンドを組んでおりました者です。清ちゃんが韓国でお亡くなりになってから月日は経ちますが、あの三軒茶屋の御自宅は無くなっており、寂しい限りですね。僕も家が近くなのでたまにその道を通りますが。彼の愛用ギター、レスポールのゴールドトップは松浦さんより譲って頂いたと聞いてましたが。いい音だった ! 彼も一時期、色んなバイトをしていて彼なりに苦労して・・・ それを目の当たりに見てたから、こんな有名な彼でも音楽だけで飯喰っていく事の大変さを知りました。そしてやっと韓国で再度復活し、これからという矢先の死去・・・・・・・・・・もし願いが叶うなら彼の追悼コンサートを皆様でしてほしい。小さなキャパで構わない、彼を思い出してほしいと思い、コメントさせて頂きました。正直、清ちゃんはもう一度、桑名さんと一緒にやりたかったと、酒の席だけど、本音を言っては、ホント、ホントって笑ってごまかしたりしてたのを覚えています。松浦さん、気を悪くさせたらすみませんです。私事ですが一昨年に、僕の友人で達ちゃんと神本さんに音源制作に参加して頂きました。みんな同じ年だったんですね。この場所に彼が居たらなと思い、残念でなりませんでした。では、長くなりましたが、不都合の際は構わず削除して下さい。失礼致しました。

kiyoshi nakai:

松っちゃん お元気ですか?神戸のナカイです.久し振りですね.確かチキンジョージでのサザンクロスの岡本の追悼コンサート以来ですよ.小林兄弟や懐かしい顔ぶれが揃っていましたね.圭三のギターソロの素晴らしさに酔いしれた夜でした.long long time a go その夜よりずぅーっと昔 こんな俺でも 自分の周りに音楽があった.イーグルスやジャクソンブラウン 友達もバイトもみんな音楽でつながっていた.チロさんが俺の音楽の師であり人生の師でした.それがいつの間にか気がつけばみんなとは全然違う世界で生きています.誰も知らないだろうし 何もかも無くしたし.普通の人が行きたくないところにも何回も何年もいった.やりたくないこともやったしやらされた.いつの間にか音楽のない世界に生きている自分に気がついた.このブログのおかげで---

HIRO-yano:

ホンマまっちゃんのブログ毎回面白いわ!ほんで仲井どこに行った?

HIRO-yano:

ほんま仲井の言う通りやわ、このブログのおかげで小林や音楽の事思い出してストラト買った!今桑名君が大変やからみんなで心から祈ろう。

キーチャン:

清貴ちゃんはすぐ近くの新聞屋さんの息子で私が小さい時から遊んでもらいました。ずっとあこがれていて。今日初めて亡くなったの知りました。近くのすし屋をやっていたのでバンドの方と一緒に来てもらったこともありました。いつか会いたいと思っていたのに。在日だということはかれのお母さんから聞いていました。韓国で活躍していたのですね。なんで亡くなったのですか?
清貴ちゃんに会いたかったです。素人がお邪魔してすみませんでした。

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