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第23話 ピンクのカーディガン

ザ ベストテンに出演するのが好きでした。テレビ番組は画像のことがどうしても中心で音に関してはこだわっていないんやろなと思われることがありましたので得意ではなかったのですがこの番組だけは特別でした。それは司会の黒柳徹子さんと久米宏さんの魔法のせいやったんやろなと思い返しています。

はじめて出たのは「SOPPO」という曲でした。この曲は当時としては画期的なロックンロールで、はたしてお茶の間の皆さんに受け入れられるかどうか心配なところもありましたが最高3位まで上がってくれて僕はホッとしていました。ところが「燃えろいい女」まではずっと1位になってたということをスタッフから聞かされ「ガーン。僕が加入したことが原因で3位までしかいかへんかったんやろか?」とちょっと悩んだりもしました。でも忙しいのが幸いしてかいつの間にやらそんな悩みもどこかへ吹っ飛んでしまってたなあ。ある週のベストテンでのことです。


神戸のマリスト国際学校のブレザーを着て出演した時(SOPPOのテレビ出演時の衣装はスーツかジャケットやった)のことなんですが黒柳さんがこの制服をえらい気になられたようで「そうなの、あなたの母校の制服なの」と番組の中で紹介して下さってその時は何かすごくホンワカした気分にさせてもらいました。次の日マリストのブラザーウォルター先生が授業中にこう言われたそうです。

「途中でやめていったあのマツウラが毎週木曜日の9時にベストテンという番組にでている」

ホンマは辞めた学校の制服着てテレビに出るなんてのはええことやないはずなんですがブラザーがそんなこと言うてくれるやなんてホンマうれしかったです。それから10数年がたって大江千里君とミックジャガーも来たことがあるという有名なレストランで緊張しながらゴハンを食べていましたら偶然にもお隣の席に黒柳さんと久米さんがいらっしゃってまずその2ショットに驚きましたのと同時にすごく懐かしくて、お食事中失礼とは知りながらあの時の制服の話をしましたところよく憶えておられてまたまたホンワカした気分を蘇えらせてくれはりました。やっぱり魔法なんですなあ!そない言うと僕が7~8歳のころ黒柳さんは「魔法のじゅうたん」という番組に出演しておられました。やっぱりそうやったんやなあ。ツイストは徹子の部屋にも出演出来たし。フンフン!!

テレビは得意でないと書きましたが煮詰まることがあったんもこれまた事実でどこの放送局かは書けませんがこんなことがありました。当時ライブではマーシャルの100ワットフルスタック3段積みを使っていまして(とはいっても上のスピーカーは鳴らしてなかったです)コイツをそのままある音楽番組に持っていきましたところアシスタントディレクターさんが「この番組はさあー、品位のある番組なんだよねえー、だからさあー、マーシャルみたいなのは困るんだよねえー」といきなり言うてきよった。

これには思わず口が空きましたよ。そもそもアンプに品位の順位があるのかい?。共演のバンドはアンペッグの3段積みを持ってきていましたのでこれではマーシャルだけが悪者扱いされてるようですごくヘヴィーな気分になりました。すぐさま僕は対抗策としてこんな作戦をたてました。題して「ヴォリューム壱奏法作戦」まずは音リハで最低ヴォリュームの1で演奏。当然のように調整室からは

「OK!」

その後カメラリハ、ランスルーと進んでいきますがずっと1のままで演奏し『OK!』全然演奏聴いてへんのんかいなと思いつつ本番の時間になりましたのであらかじめ考えていた次の大作戦を実行に移しました。全てのレベルをフルアップにして弾いたのです(全部10ですわ)。メンバーにはこっそり言ってあったのでだれも驚きませんでしたがそれはそれは爆音でした。ライブでもこんな大きな音は出さないので弾いてる自分もビックリなくらいの爆音スライダーでした。

さあ、なんて言うてきよるか内心はドキドキでした。ところが「OK!!よかったんじゃなーい。お疲れー!」と調整室からピンクのカーディガンを肩から羽織ったディレクターさんの明る―いお言葉。そしてプレイバックを聴いたら何の計算違いかこれがバッチリ。いったいどないなってんねんやろか。爆発ギターが聴こえてくるはずやったのにええ感じになってる。まあ良かったからいいんじゃなーい!!というわけで舞台裏から実況中継でした。しかしイヤやなあと思ったのは多分この時くらいで殆んどの場合善良なスタッフの方達と仕事をさせてもらっていましたのでテレビはアカンねんなあとは思わないで下さいね。

そして激動の1979年も押し迫ってきまして第30回紅白歌合戦に出場する運びとなりました。出演者は超豪華で大好きな沢田研二さん、サザンオールスターズ、ゴダイゴ、とロックバンドがたくさん出た紅白でしたが何といってもジュリーさんのカサブランカダンディは最高にかっこよかったです。
明けて1980年神戸へ久しぶりに帰省しましたが速攻でトンボガエリ。松の内が明ける頃にはニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイへの取材旅行に向かっていました。仕事で海外へ行く。ウーン!何とも甘美な響きでありましょうか。夢が叶って僕は思いきり舞い上がっていました。ところがそうは問屋が卸さないことに。

ニューヨークにはノープロブレムで着いたのですがこのツアーには通訳がついていないことが判明。そんなアホな。そやからちょっとでも何かが起こると僕の出番がやってくることに。マネージャーの渡木さんから「悪いんだけど松ちゃん来てよ」とおよびがかかる。その頃まだ少しは英語を話せましたので(今は忘却の彼方です)写真家ボブグルーエンとのフォトセッションもなんとかこなせましたしニューヨークドールズとの路上対談も実現した。LA行きの飛行機に乗る直前の係員とのチケットをめぐるトラブルもなんとか回避した。いやいやなかなか密度の濃いニューヨークではありました。そしてLAへ。

LAといえばやっぱりディズニーランドでしょうということでさっそく雑誌の取材がスタート。金ちゃんがスペースマウンテンについて説明をしてくれました。曰く「真っ暗な宇宙をトロッコに乗ってゆっくり旅するロマンあふれるアトラクションなんよ」安全性を確認できたので?それでは乗ってみましょうということになりました。

僕は子供の頃、観覧車から上半身が外に宙ぶらりんにでた状態で救出もされず一周するという恐怖を味わっていますのでジェットコースター等も全然だめな大人になっていました。そんな事情で一応確認をしたわけでしてゆっくりやったら大丈夫やといざ出発。ところが見事にふとがねマジックにやられる羽目に。このスペースなんとか、ホンマええかげんにしてもらわんと怒るでしかしくらいの早いスピードで暗闇の中を無茶苦茶回転したりしながら走りよるんです。暗闇コースターの思わぬ攻撃を受け僕は遭えなくダウン。取材を途中リタイヤーしてホテルで休むことになってしまいました。そやけど一休みすると三半規管も幾分落ち着いてきてホテルカリフォルニア(ビバリーヒルズホテル)の前での撮影のあと単独行動で憧れのノーマンズレアギターへ向かいました。

ノースハリウッドにあるこのヴィンテージギター屋さんは世界で一番有名です。今は大きな店舗になっていますがこの時は小さなお店でした。そこには考えられないような名機というか宝物が所狭しと並んでいまして値段も激安やったです。残念ながらこの時は手持ちがなかったので何も買えなかったのですがその後、僕も鮫ちゃんも世良君もマック保田さん(世界的ギターコレクター)の紹介で何度かお世話になっています。ノーマンハリス氏は裏の小部屋から何でも出してくる手品師です。しかーし今では値段も超一流やと思いますのでなるべく日本で出物をさがすのがよいかなあとは思います。

ノーマンズから空港へ向かう途中のハリウッド大通り。日も暮れかかってきましておのぼりさん気分全開。西海岸、最高!!と通りの風景を楽しんでいましたらイーグルスのロングランのジャケットによく似た巨大な看板が目に飛び込んできました。そこには、ドンヘンリー グレンフライ ドンフェルダー ジョーウォルッシュ ティモシーBシュミット ザ ロングランと書いてありました。しかしどこにもイーグルスとは書かれていません。思わずかっこええと叫んでしまいました。もうバンド名を明記したくなかったのかそれとも意図的なデザインなのか。とにかくアメリカセンス良すぎです。
さあいよいよハワイに里帰り?する時がやってきました。

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