マリストの同級生トミー君がラスベガスへ帰っていった。ゴッツイ遠い所へ転校しよるナァ、さすがやナァと。そのトミー君との文通が始まり、ネバダ州の公立高校は授業料が無料で、そしてそして、考えられないことに、なんと観光ビザでも、保証人さえいれば入学OKということがわかってきた。
このオイシイ話に飛びつかないワケがない。この日からなんとか親を説得する史上最大の作戦(?)が開始されました。
トミー君の父上は「保証人になったるでぇ」と快くOKしてくれました。しかし当時1ドルは360円。下宿代を安くしてもらってもやっぱり高い。オマケに飛行機代が、伊丹−羽田−ホノルル−LA−ラスベガスの往復で30万円強。(直行便はなかったし、H.I.S.はもちろんなかった!)これはアウトやろなと思ってましたが、父ががんばって魚を多めに売って(??)なんとか行かせてもらえることになりました。
生まれて初めて乗ったジャンボジェットは、そら華やかで桜の花の中にいるようなムード。機内食もおいしかったし、飛行機が大好きになりました。
そしてホノルルへ無事到着。2泊しました。ここでもマリストの友人テッド君の学校の寮にもぐりこませてもらいました。
もちろんハワイは初めて。そして一瞬にして大好きになってしまった。もうラスベガス行かんでええんでないか〜ちゅうぐらいええ所でした。ワイキキの大通りには提灯がいっぱいぶらさがっていて、古いええハワイを体験できて、ホンマ良かったです。
そのハワイで買ったストラトの話は次の回に書くとして、生まれて初めての連発が続きます。マクドナルドの魚のフライとチーズのはさまったパンのうまかったこと。ダイエットコーラも薄くてうまかった。サイミンもうまかったのかまずかったのか、もう夢の中の2日間でした。
そしてついにラスベガス到着。空港には懐かしい顔…トミー君、父上、そして妹のキャシーさんも来てくれた。いやいやゴッツイ遠いところまで来たもんや。ラスベガスも今のようなド派手なところではなく、ちょっとさびれた歓楽街のような風情でありました。
次の日、早速ランチョウハイスクールで入学手続き。イッパツOKで、その日から早速授業。この高校は巨大ハイスクールで、1日2部制、僕は午後の部に転入。12時から5時までという楽勝パターンの学校生活が始まりました。
生徒数約4千人、うち日本語を話すのは僕・トミー・キャシーの3人だけという、それはオソロシイほどアメリカやった。しかし、マリストに比べて勉強がカンタン。多少は英語もわかるようになっていたので、授業にはなんとかついていけました。
ランチョウハイスクール校門前と砂漠のど真ん中で
しかし、困ったことが勃発。僕のことをみんなが“MATT(マット)”と呼び出したのです。「ちょっと待ってくれ、ボクはマットでもソファーでもないぞ」と言いたかったが、時すでに遅し。あきらめてマットに変身しました。
2週間ほどたったある夜、マットは突然ゴッツイ咳の発作に襲われました。喘息なんかなかったはずやのに、いきなりの発作にびびりまくり。このラスベガスの気候が体に合ってないという診断。なにしろ夜はメチャ寒で、昼間は道路でステーキが焼けるような砂漠のど真ん中。協議の結果、ラスベガスでの学校生活を断念する事に。
しかし、一体どのツラさげて神戸へ帰る?何かええ方法はないか?トミーとも相談して、答えが出ました。そうや“ハワイへ行こう”。こうして、ラスベガス滞在わずか1ヶ月にして、ハワイへ逆戻り。
またもやここで問題が!!アメリカは州によって法律が異なり、ハワイ州では学生ビザがないことにはどないもならんことが判明。
しかし世の中捨てたもんやなかった。母親の宝塚時代の同級生がホノルルに住んでおられることを知り、失礼を承知でアポなし訪問。事情を説明したら、なんとありがたいことに保証人を引き受けてくださった。
このおかげをもって、ルーズベルトハイスクールという高校に転入できることになり、天国のようなハワイでの生活が始まりました。
喘息はすぐに治り、水がうまい・メシがうまい・空気がうまいの3点セットに超満足。学校もええ感じで友人もすぐにでき、毎日25セントの給食を2セット食ってました(この頃からちょっと太りだした…ワッハッハ)。
そして、今度のニックネームは“サカナ”。実家が魚屋やからというレベルの発想からのネーミングに、さすがに勘弁してくれ!!と。その後“ヨシ”に名前は変更され、穏やかで素晴らしい日々が過ぎていくことになります・・・??