村上ポンタさんのチューニングのおかげで2人のドラムの音はバッチリに。しかし、レコーディングには膨大な時間がかかりました。何度もリズムトラックを録り直した。これだけは全員が気に入るまでやった、というか誰かがどこかでちょっとまちがうとやりなおした。“音のIT革命やー!!”は当時なかったので、「せーの」で同録。あとでやるギターソロやボーカルにも時間がかかったが、なんとか出来上がりました。76年の夏の終わりのことです。
チャールズも2曲に参加。大阪の千日前を2人で歩いている時に「千日やから、サウザンド・デイズやなぁ」から出来上がっていった『MY DADDY』と『台風』はチャールズとの共作です。そして、プロデュースはめんたんぴんの池田洋一郎さん。ずいぶんボクラをリラックスさせ、良い方向に導いてくれました。
「keep on truckin’」と名付けたアルバムを持って、ライブツアーは始まりました。渋谷の「屋根裏」には前から何度も出ていましたが、最高入場者記録を作り、ゴッツイ喜んだのでありました。しかし、数日後にオキナワの紫にすぐ抜かれてしまって、チャンチャカチャーン。そして、ついにデビューコンサートを神戸ヤマハと有楽町読売ホールでやることになりました。ライブハウスとはおもむきが違うコンサートもなんとかうまくいき、たくさんお客さんが入っているのに感動しました。初めて東京の三ノ輪にある「モンド」に出たときは3人しかいなかったお客さんがここまで増えると、うれしいとは裏腹にちょっと恐い気がしたのも事実です。
プレッシャーを感じつつも、学園祭などのイベントにも参加。名古屋での学祭のライブの時初めてホテルに泊めてもらい、みんな興奮して部屋で花火をしてれらい怒られたこともありました。ウーン、では今までは旅館に泊まっていたのか?という素朴な疑問がそこにはあると思いますが、実はその日その日のいきあたりばったりでライブハウスのオーナーの家、友達の家などに泊めてもらってました。ライブハウスの二階で寝かせてもらったときもあります。泊まる場所がないときはひたすら次の町へ向かうこともしばしばでした。若いから出来たんやろうけど、それでもけっこうキツかったです。イチバンキツかったのは、九州でライブをやり、そのまま走って次の日大阪のM大学の学園祭に出た時かナァー。アメリカのロックバンドの使っているべッド、シャワー付きのツアーバスとは違い、リクライニングなしのELF6人乗りダブルデッカーは、かなり狭かったです。でもエコノミー症候群に誰もならずにすみました。そもそもそんな病気その頃聞いたことなかったです。関係ないけど花粉症もなかったような気がするゾー。
明けて77年元旦に、東京は平和島でのイベントに参加。(前武のヤングアップ)共演は安全バンド、そして入場者記録を破られた紫。ここは負けるワケにはいかへん。しかしようみると、オキナワの紫はメチャ寒そうにしていて調子がイマイチそう。言い忘れたが、これが真冬の野外イベント。ちゃんと指が動くワケがあらへん。しかしこっちはスライドギター、すべらしとるだけでいけるでー。まあ、冗談ですけど。この時も評判は上々で、終演後またしても日帰り、正月からキツイ行程ではありましたが、僕たちは気分上々でした。
そしていよいよレーナードスキナードとの共演、いや前座の日々が近づいてくるのであります。前評判ではメチャ南部の野さくれ男の集団で、ゴッツイ飲んだくれて恐いゾーということで、まあ前座やし、交流戦はないやろナァ、サインくらい欲しいナァてな感じであまり期待していなかったというか、ちょっとビビッていたのでありました。

