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第17話レーナードスキナードその3『1977』

中野サンプラザ3日目のコンサートの後、楽屋でロニーヴァンザントのお誕生日会がささやかに執り行われました。前座のボク等も参加させてもらえることになり楽しいひと時を過ごしました。
しかし僕はちょっと緊張していたのであります。それは最終日までにロニーにお願いしなければならないことがあったからです。


レコード会社からアイドルワイルドサウスの2作目はロニーにプロデュースをお願いしようというアイデアがでてて「松浦が直接ロニーにお願いするのがイチバンええで」ということでいつ言おうか途方に暮れてたんです。
意を決してロニーのところへ行き「ちょっと、お話が!」と話かけたのですが今思い返すにゴッツイ話をいっぱいしてくれたなあ、なのであります。ロニーはFREEBIRDを歌うとき必ず「Playin' for Duane&Berry」とブリッジのところで言うのですが、Duane Allmanが南部の種なんだと何度も僕に言うてくれました。Duaneがいなかったら何も始まらなかったんだとも言ってました。クラプトンの住むイギリス、君達の日本は島国で島国のよさがあり、アメリカには大陸の良さがある。だから君達は日本のよさを音楽に反映せなアカンデー、と言うてくれました。そしていきなり「そうや、次のアメリカツアー、オープニングアクトでついてくるか?」言われたときにはちびりそうになった。このお言葉に勇気100倍になり本題をやっと言える状態に。

【ロニー、次の僕達のアルバムのプロデュースしてもらえませんでしょうか?】ロニーはちょっと困った顔をして、「うれしい話やけどオレは38specialという弟のバンドのデビューアルバムのプロデュースをすることになってるのですぐには無理やなー。そうやトムダウトを紹介してあげよう」と言うてくれた。トムダウトといえばあの「レイラ」を作った名プロデューサー.何やら話がワールドワイドになってきてこの時点で腰はもうグラグラでした。
楽しい誕生会も終わり、2つのバンドは大阪へ移動することに。レーナードスキナードはもちろんグリーン車。僕等は3人がレンタカー、残りの3人は自由席とそれぞれがそれぞれの方法で大阪へ向かったのでありました。

移動日の夜、スティーブゲインズが部屋に遊びに来えへんかと言うてくれたのでおじゃますることに。部屋に行くといつもの63年製ストラトキャスターがドーンとおいてありそれからスライドギターの弾き方交流会が始まりました。スティーブはすごく紳士な人柄でどちらかといえばおとなしい人でしたが、ギターと音楽に関してはメチャ前向きでホンマ長時間ギターのはなしばっかりしました。別れ際【ツアーが終わったらフロリダの家に遊びにおいでよ】と住所と電話番号を教えてくれました。このメモを僕は今も大切に持っています。

大阪のライブにはチャールズ清水も参加し、アーティはもちろんタンバリンで参戦。ゴッツイええライブが出来てひと安心。次は中野サンプラザの最終日やちゅうことで神戸へ帰りました。
そしてベースのレオンウィルクソンに頼まれていたうなぎの蒲焼を持って再び上京。レオンのホテルへ。メンバー、スタッフ分のうなぎを持っていったのですが、ほとんどの人は食わず。なかには逃げ出すローディもいたりしてかなり不評な差し入れとなりましたがレオンはウマイウマイと言って食べてくれました。

199?年の再結成ツアーで再会したNHKホールの楽屋でレオンはその時のことを憶えていてくれて【あの時のうなぎうまかったなー。今日はないのんか?】と快調なギャグを飛ばしてくれました。そしてボーカルのジョニーヴァンザントに【コイツが英語でステイツボロブルースを歌いながらスライドギター弾く日本人や!!】と紹介してくれました。そしてライブの後ハードロックカフェに来いと誘ってくれたのですが仕事がありどうしても行くことが出来ませんでした。レオンに会ったのはその日が最後です。
そしてロニーにトムさんを紹介してもらうことも、スティーブの家に遊びに行くことも何も果たせませんでした。
レーナードスキナードとのツアーの直後 アイドルワイルドサウスは突然、分解してしまいました。バンド解散の理由をここで書くことはしたくないのでそのあたりは理解してください。

レーナードスキナードは「ストリートサヴァイバーズ」を発表。それにともなうツアーを始めたばかりの1977年10月20日、取り返しのつかないことが起こってしまいました。
彼等の乗った飛行機が墜落してしまったのです。テレビのニュース速報で事故を知り愕然としてしまいました。そして ロニー スティーブ キャシーが亡くなったと知らされました。バンドをやめてしまったボク等もアカンけど死んだらもっとアカンやろ。こんな書き方はいけないとはわかっていますが、悲しくて悔しくて、長い間立ち直れませんでした。僕はいろんなバンドに影響されて52歳の今日までロックを続けてきました。

その中で僅か10日間ほどでしたがレーナードスキナードといっしょさせてもらったことがどれだけ勉強になったか語りつくせません。もし天国がありそこに声が届くものなら僕が今もロックをつづけていられるのはあなたたちのおかげですと叫びたい気持ちです。
今も彼等はバンドを続けています。77年からのメンバーはギターのゲイリーロシントンとピアノのビリーパウエルの2人になってしまいましたが今日もアメリカのどこかの町でロックンロールショウを繰り広げていることでしょう。何が起ころうとバンドを続ける。これは並大抵のことではできません。亡くなったメンバーの分までロックし続けてるんやと思います。本当に素晴らしいことです。
いやあ、ちっちゃなことなどくよくよせずあと2、30年はやらんとホンマモンにはなられへんぞー。

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コメント (2)

由紀夫:

おいら下手なウッドベース弾きだけど一生バンドはやり続けるんだ、32歳になって結婚とかいろんな事があるけど、売れてもいないし有名でもないけど一生ヤルヨ!GIMME BACK MY BULLETS聞いてたら フト 思っちゃった。

1977年1月18日の大阪厚生年金大ホールでのライブ観ました。
(当時高校2年生でした)

Artimus Pyleがタンバリン叩いていたのよく憶えています。

Statesboro Blues良かったです!

知られざるLynyrd Skynyrdのお話ありがとうございました。

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