本格的にソロ活動を再スタートしようと久しぶりにリハーサルが始まりました。
バンドメンバーはツアーごとに変わりましたが、気の合う友達が手弁当で参加してくれていました。メンバー遍歴を紐解いてみますと、ギターが依田“デカパン”稔、小林圭三、新井清貴、佐藤英二、一時期準レギュラー的ゲストで田中一郎、ベースが新井武士、鮫島秀樹、キーボードは神本宗幸、蓑輪単志、ラッキー川崎、難波正司(敬称略)佐藤君、蓑輪君、ラッキーさんはワンツアーだけの参加でしたが、ホンマにええメンバーが集まってくれたものです。
観にきてくださるファンの方たちは毎回のメンバー、ゲストがゴッツイ楽しみやったそうです。楽しいライヴを続けられたのは、ミュージシャンの皆さんのお蔭やなあとつくづく思います。
そやけどホンマのことを言いますと、
この時待ちに待ったライヴであるのにもかかわらず、今までのように音楽に対する情熱やひたむきさが欠けてきていることに気がついていました。バックバンドやスタジオミュージシャンをやりながらギタリストを続けていくことは出来たと思いますが、ふっきれていない状態が続いていました。
そんなある日、元ブラッドショットの小林和之君から「ちょっと会わへんか?」という誘いがあり何やろなあ、急に改まってと思いつつ待ち合わせ場所に行くと、いきなり「松ちゃん。エピックのディレクターにならへんか?」と唐突に言うのであります。小林君はアンのバンドの後エピックソニーに入社し、大沢誉志幸さんの「そして僕は途方に暮れる」がヒットしてディレクターとして大成功を収めていました。
話がいきなりやったもんで、そして考えたこともないディレクターへの華麗なる転身。「僕には出来へん思うよ」とその場でお断りしたのですが、小林君は何度も親身になって話をしてくれました。
ホンマに熱心に説得してくれるので、そない言うなら一度会社の方に会ってみようという段取りになりました。夜の青山、赤坂、六本木辺りのお洒落カフェレストラン又はホテルのバー等が会談場所として設定されるんやろうなと、1人想像を膨らませていましたら、なんと家から徒歩で五分程の三軒茶屋銀座にある居酒屋でということになり、いきなり親近感が湧いてきましてその時点でちょっとだけ心は動いていました。
「松ちゃん、久しぶりやねえ、バーボンハウスの楽屋で会って以来やねえ」
小坂洋二と書かれた名刺を頂きました。陽に焼けて目がギョロッとした一見サーファーのような小坂さんに僕は会った記憶がありませんでした。そやけどよーくよーく話を聞きますとブラッドショットのバーボンハウスでのライヴを観にきてくれて、楽屋でいきなり「エピックからデビューしませんか?」という話をして下さったらしいのです。そしてその時僕達が全然その話に乗らなかったというのであります。
僕が「僕ら、東京には行きませんから!」と二つ返事?で断ったというのであります。しかし僕にはその時の記憶がまるでありません。ひょっとして小坂さんが僕を面白がらせるためにギャグ言うてるんとちゃうかなあとその時は思ったのですが、後日話をゆっくり聞きますと事情が見えてきました。
小坂さんがおっしゃるには、その日の楽屋は初めからムードがメチャ悪かったそうでどうやら演奏が上手くいかずメンバーが煮詰まってるちょうど絶妙に悪いタイミングに楽屋に入って来られたらしいのです。そんな真っ只中だったから心にもないいい加減な断り方をしたのであろうという話に一応は落ち着いたのですが、今でもその事は不可解でしゃあないです。第一そんなええ話、断らへんよね。
その時デビューしていたらひょっとして僕達は佐野元春やTM NETWORKばりのトップスターになっていたかも知れないのに。ここで1回人生の選択肢を誤ったことに違いはありません。
そして今回はディレクターとして誘って下さり、有り難いこととは 重々知りつつやっぱり即答は出来ませんでした。
そやけど「僕はディレクターにはなりませんから!」なんて決して言っていません!!!
ギタリストの看板を下ろすにしては早すぎるし、ギターを弾かない自分が想像出来ないし、しかしええお話には違いないし。結局結論は出ずにその日はお開きとなり答えが出たら僕から電話するという運びになりました。それから1週間程本気で悩みました。頭の中はハモンドオルガンの回転スピーカー、レスリーの如く早く回ったり思いっきりゆっくり回ったりの繰り返しでした。そやけど結論は出さなあかんし。
僕はいつになく緊張した声で小坂さんに電話しました。「よろしくお願いします」以外何を話したかは憶えていませんが、小坂さんはすごく喜んでくれました。そしてすぐにでも出社してええよというお話をいただいたのですが、僕にはやることがひとつだけ残っていました。
それはライヴやレコーディングではなくハワイに行くことやったのであります。なんとイージーなヤツなんでしょうか。
ハワイに行って思いっきり遊びたい。大好きなハワイにちょっとでも長くいたい。そういう具合でしたから1ヶ月でも足りないくらいやったのですがが、そこは常識?の範囲内ということで!正確には35泊37日の超ロングステイを敢行したのでありました。
ハワイに旅行する前にはソニーの社長面接がありましてゴッツイ緊張してしまいまして面接直前に何度も社長室のフロアーにあるトイレに駆け込むという事態に。しかし予想に反してスムーズと言うかイッパツオーケーと言うかこんな簡単でええのかなと思うくらいの短いお話でほんまにホッとしました。
こうして僕はついに社会人としての第一歩を踏み出すことにあいなりました。
そしてハワイですがやっぱりええ感じでした。
それも35日ものロングヴェイケーションですからなおさらです。まだまだ元気やったので、シュノーケリング三昧、そして肉、ビール、肉、ビール、たまにコーラ、朝はジッピーズかマクドナルドのサイミン(ハワイ風ラーメン)の日々を堪能してアッという間に35日は過ぎ去りタイムスリップしたかのごとく三軒茶屋に帰って来ていました。
アパートに着きますと運良く毎月楽しみにしている音楽雑誌がポストに入っていましたのでのライヴ情報のページなどを何気なく見ていますと、「3月15日 松浦善博 エッグマン」と告知されているではありませんか!!! 僕は思わずひっくり返りそうになりました。全く身に覚えのないスケジュール。説明がやや不足気味でしたが僕は現役をフェイドアウトしようと心に決めていました。
そんな考えでしたからこのエッグマンライヴにはびっくりというか反対というか。早速事務所の山岸社長に「なんでライヴやることになったん?」と聞きましたところ「オレが決めたんとちゃうよ。鮫ちゃんが松ちゃんの花道を飾ったろうと企画してくれてるねんで。幸せ者やなあ!」と電話の向こうの声が喜んでくれていました。これでフェイドアウト大作戦は見事に失敗。
リハーサルスタジオに行きますと鮫ちゃんがいつもの調子でまるで何もなかったようなフリをしながら「曲、決めようか」とレポート用紙とマジックインキと缶コーヒーを持って待っていました。僕はやられたなあという気持ちと感謝の気持ちでいっぱいでした。リハの最終日にはツイストのメンバーが集まってくれて懐かしい曲の数々の練習も執り行われました。
エッグマンは満員御礼どころの騒ぎではないくらい盛り上がっていて、せっかく駆けつけてくれた友達も入場出来ない状態でありました。
ここで鮫ちゃんのお言葉「しもーたなあ、渋公でやれたなあ!」このギャグとも本気とも取れるつぶやきにスーッと緊張がほぐれていつもと何ら変わらないライヴがはじまりました。
そやけど実はまだ僕には知らされていない仕掛けがいっぱい仕込まれていました。
裏切り者の松ちゃん(アンのバンドを辞めてから彼女は僕をずっとそう呼び続けています)のために来てくれたアンルイスさん、宇崎竜童さんは何も言わずにただ歌ってくれました、桑田佳祐さんはラジオの生本番中に抜け出して来てくれたそうです。大友康平さんは歌だけやなしに司会までしてくれました。
そしてツイストは久しぶりに太刀川伸一とのツインギターでした。この時ツイストに加入した頃の色々な思いが走馬灯のようによみがえってきて不覚にも僕は泣いてしまいましたが、絶対誰にも涙は見られなかったと今でも思っています。たくさんのゲストが来てくれました。正直思い出せない部分も多々ありますがその辺りはお許し下さい。
バンドはドラム吉岡貴志、ギター新井清貴、キーボード神本宗幸、ベース鮫島秀樹、ええバンド人生でした。これが人生最後のライヴやと信じて疑わなかった僕でありましたし、復帰することなど一切頭にありませんでした。
夜を徹して行われた楽しい最終打ち上げの数時間後、1985年3月16日午前9時半に僕はエピックソニーの自分に与えられたデスクに、ジャケット、ネクタイ、スラックス、革靴のいでたちで借りてきた猫のようにちょこんと座っていました。
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どきどきしながら読みました
投稿者: 御自由歳 | 2009年10月26日 23:16
日時: 2009年10月26日 23:16